郷土の先人 ➁

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高田 熊良 ・郷土の先人 74

高田 熊良 (たかだ くまよし)


大正5年~昭和55年(19161980) 畜産功労者。

 

大正5年1月3日、北宇和郡広見町大字北川に生まれた。北宇和地方における酪農の先覚者であって、模範的酪農径営者であった。また、地域のよき指導者でもあった。昭和8年より耕種農業に従事し、終戦の痛手で国民が茫然自失の状態にあるとき、後進性の強い地域農村の開発復興には、酪農振興は必須の課題であるとして率先酪農経営を志した。先進地の視察など研究を重ね、自信を得て地域の有志を募って乳牛の共同導入を行って酪農経営をスタートさせた。

 

その後、関係農家のよき相談相手となり、また研究会を作るなど、技術の向上、経営の合理化、優良系統牛の導入保留、自給飼料の確保に重点を注ぎ、確固たる基盤を構築した。さらに、施設の革新を目指して公社牧場(5戸)を建設し、あるいは後継者育成に意を用いて選択的発展への恩人とも言われる人となった。

 

その後、地元農協の監事理事専務を務めるほか、町会議員農業委員、PTA会長など、畜産以外での幅広い活動も高く評価された。県畜産功労者表彰をはじめ、多くの賞が授与されたが、65歳を待たずして昭和55年6月2日急逝した。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

松根 宗一 ・ 郷土の先人 73

松根 宗一 (まつね そういち)


明治30年~昭和62年(18971987)実業家。


明治30年4月3日,宇和島に生まれる。俳人松根東洋城の実弟にあたる。旧制の宇和島中学校卒業後、東京商科大学へ進み大正12年卒業する。同年日本興業銀行へ入行した。その後、昭和7年日本電力連盟の書記長となる。

 

昭和31年原子力産業会議常任理事、副会長となる。また、経団連エネルギー委員長や原子力発電取締役ともなり、名実ともに原子力の松根として財界のトップに立つ。

 

連盟の書記長時代には、国家統制に反対して留置場へ入ったこともある。松永安左衛門、小林一三、麻生太賀吉などの実力者にも可愛がられ、東亜電力社長、後楽園社長などにもなる。「すばしっこい一面、人を食った図太いところがある」という松根評がある。昭和51年には勲一等瑞宝章を受け、同55年には県功労賞を受賞する。趣味はタイ釣りで、四国に帰ると必ず興居島沖のタイ釣りに出かけた。昭和62年8月7日死去、90歳。


(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

森岡 天涯 ・ 郷土の先人 72

森岡 天涯 (もりおか てんがい)


明治12年~昭和9年(18791934) 社会事業家。

 

明治12年、日振島(現宇和島市)に生まれる。本名捨松。明治32年、20歳でアメリカ航路の船員となりシアトルへ行く。ホテルの皿洗いや牛乳配達をしながら苦学をする。新聞記者として活躍するが、滞米23年、大正10年に帰国し、南予農漁村の経済、文化の貧困と後進性の打破のため、故郷で後半を捨てようと決意する。

 

禁酒・禁煙の敬けんなクリスチャンであった彼は、故郷の日振島で禁酒運動をはじめた。漁村と酒は断ち切れないものがあり難事業であったが、一人ひとりと膝詰め談判で説得し、酒に使う金で立派な小学校をつくらせた。

 

薬師寺岩太郎らの協力で、月刊雑誌「南予之青年」を出したり、大正12年には、財団法人南予文化協会を誕生させた。また、昭和3年には、南予文化会館を建てようと寝食を忘れて資金作りに奔走し、昭和5年完工する。これは昭和20年の空襲で灰じんに帰したが、夏季大学をはじめ各種の社会教育の行事等に活用された。後に、この会館の敷地売却代金で南予青年の家が建設され、天涯の灯した火は消えないで今に生きている。ここには天涯の精神を頌徳する碑が建っている。

 

昭和9年、満鉄の招きで満州各地を講演旅行中病に倒れて、同年8月帰国、まもなく死去した。 55歳。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

弘田 義定 ・ 郷土の先人 71

弘田 義定 (ひろた よしさだ)


明治37年~昭和62(19041987)歌人。

 

明治37年6月26日、宇和島に生まれる。宇和島商業(現宇和島東高)卒業後、南予時事一愛媛新聞と新聞界に身を置いた。短歌との出会いは大正11年、18歳のときで、最初の師は中井コッフであった。

 

弘田は子規の流れをくむ伊藤左千夫、長塚節、島木赤彦、土屋文明らを敬愛した。中でも文明の庶民的な叙情歌に心ひかれ、昭和26年アララギに入会する。近代短歌の革新を志した子規の唱えた写生、写実主義を歌作りの基本にした生活歌人でもある。昭和27年「愛媛アララギ」創刊以来、代表の座につき、愛媛歌人クラブ会長,松山歌人会会長をつとめた。

 

昭和59年には「愛媛アララギ」は創刊以来388号を数え、会員数、活動ぶりは関西一といわれた。新聞社では論説委員長、営業局長、常務取締役などを歴任した。昭和59年文化庁地域文化功労賞、松山市民表彰を受ける。昭和62年6月20日、82歳で死去。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

薬師寺 真 ・ 郷土の先人 70

薬師寺 真 (やくしじ ただし)


明治44年~昭和53年(19111978) 蚕糸業功労者・実業家。

 

明治44年4月20日、北宇和郡三間村に生まれる。吉田中学校を卒業。愛媛県養蚕試験場講習科を終えて養蚕業を自営していた。三間地方は、明治中期頃から養蚕が盛んに行われ、迫目の岡本景光は、明治23年以来蚕種の製造を行い、県内外から注文があった。また、大正8年、赤松直次郎が宮野下に移って三間蚕業株式会社をつくった。その他に富永、薬師寺、黒井地の佐々木、是延の善家等が蚕種製造に従事し、地方蚕業に貢献した。

明治42年、宮野下に河野製糸場(後,三間製糸株式会社)が開かれ、大正に入って第一次世界大戦が起こり、養蚕の黄金時代を現出した。だが、大正末期から昭和初期にかけての財界の不況により、暴落の一途をたどり養蚕・製糸家は減少していった。

 

薬師寺は、昭和20年4月、井関農機会社に入社(社長井関邦三郎,大正13年北宇和郡三間村で創業)。同年7月26日、松山空襲で市街はほとんど焼失、同社も全焼した。社長・井関邦三郎のもと復興に尽力、今日の全国屈指の農機製造工場の基盤の樹立に大きな貢献をした。昭和34年、代表取締専務に就任した。労働力の省力化、効率化に努め、農業の近代化の先導的役割を果たした。昭和年には田植え機、コンバイン、バインダーを製造販売。稲作一貫体系を完成した。また、販売網の拡充とサービス、商品管理体制の一貫性をめざした。本社工場のほか、熊本・茨城に最新設備の工場を新設し、農業機械の高性能化と多種混合生産システムを導入する等、大きな働きをし昭和46年同社を退職した。


この間、愛媛経営者協力会長、愛媛経済同友会の初代代表幹事を歴任した。また,昭和39年松山市民病院(大手町2)開設に努力し、理事長を務めた。同48年から南予レクリエーション都市開発会社専務・社長となり、地域経済開発に力を注いだ。さらに、松山商工会議所会頭・愛媛県商工会議所連合会会頭の要職に就き、愛媛の経済界のリーダーシップをとった。同47年には、故井関邦三郎(昭和451011日死去)の遺志によって県内の優秀農業関係者に贈る「井邦賞」を創設した。昭和53年1月2日、66歳で死没した。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

上甲 振洋 ・ 郷土の先人 69

上甲 振洋 (じょうこう しんよう)


文化14年~明治11年(18171878) 儒学者。時世を憂え、明治10年国事犯事件を扇動した。

 

文化1412月9日、宇和島の藩儒・上甲順治(拙園)の次男に生まれた。兄上甲貞一は、幕末宇和島藩家老で維新後、大参事を務めた。字は師文、通称礼三。藩学明倫館に入り、次いで小松の近藤篤山に師事し、天保11年、江戸に遊学して安積艮斎に学び、昌平黌に入った。

 

帰藩後の弘化2年、藩の儒官に任ぜられたが、嘉永5年、官を辞した。安政元年、八幡浜に移って私塾を開き、その門人は数千人に及んだという。明治2年、宇和島藩知事の懇請で官に復職、権大参事民政掛と文学教授を兼ね学制を改革した。明治3年辞表を提出して八幡浜に帰り、謹教堂を設けたが、新政府を批判したので、同5年、官命により閉鎖された。門人鈴村譲や飯渕貞幹らと時世を慨して方策を議した。宇和郡奥野川村に潜伏中の長州不平士族・富永有隣の斡旋で土佐の大石圓らと盟約を結び、京都の友人春日潜庵を頼って鹿児島の西郷党と通じようとした。

 

明治7年、京都での心労で中風に罹って半身不随となり、以後の企ては鈴村譲に指示して奔走させた。明治10年、西南の役が起こるとこれに呼応して準備を進めていた吉田の飯渕党と、大洲の武田豊城一党の謀議・武器収集が露見して、同志ことごとく拘引・逮捕された。が、振洋は中風の故をもって、獄を免れた。鈴村・飯淵らは、尋問でも師振洋に類が及ぶのを恐れて、事件についての真相は口を閉ざした。

 

明治11年9月9日、門弟が獄につながれ悶々のうちに70歳で没し、宇和島選仏寺に葬られた。大正13年、鈴村譲は『振洋先生年譜』を著して、「明治10年国事犯事件」と振洋との関わりを明らかにした。学識深く、漢詩文をよくし、『上甲振洋先生遺稿』『上甲先生詩稿』『藩日記抜萃』など、多数の著書かある。末広鉄腸・都築温・井関盛艮・西河通徹・左氏珠山・告森良・西山禾山など、宇和島出身で名をなした人々の多くが、振洋の門弟として薫陶を受けた。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

原  尚 ・郷土の先人 68

原  尚 (はら ひさし)

 


明治25年~昭和49年(18921974) 教育者。

 

明治25年5月6日北宇和郡宇和島町北町(現宇和島市大宮町)に生まれる。宇和島中学校を経て、広島高等師範(現広島大学)を卒業。大正5年、京都の旧制中学に勤務をはじめ、中等教育一筋に歩む。昭和13年から終戦まで,今治高等女学校(現今治北高校)、松山高等女学校(現松山南高校)、今治中学校(現今治西高校)の校長を務める。

 

戦後は、今治第一高校、宇和島東高校長を歴任する。専門は理科で、理科教育に大きく寄与する。昭和29年に退職した。 38年間の教職生活を終えてからは、地域社会の文化振興に尽力し、社会教育委員や文化財保護委員として郷土文化の発展に寄与した。

 

昭和40年には勲四等瑞宝章、同42年、県教育文化賞を受賞する。昭和491230日、82歳で死去。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

芝 不器男 ・郷土の先人 67

芝 不器男 (しば ふきお)


明治36年~昭和5年(19031930) 俳人。

 

明治36年4月18日、北宇和郡明治村松丸(現松野町)の芝家に生まれる。不器男の名は、論語の「子曰、君子不器」から命名された。昭和3年、同郡二名村(現三間町)の太宰家に入る。本名、太宰不器男。

 

松山尋常小学校、宇和島中学校、松山高等学校を経て、大正12年、東京帝国大学農学部に入学した。その後、東北帝国大学工学部に転じたが中退した。

 

俳句は、大正12年、家郷の句会に出席、姉蘭香女のすすめで句作を始める。はじめ扶樹雄と号して、長谷川零余子の「枯野」によったが、俳人である兄のすすめで吉岡禅寺洞の「天の川」に投句、禅寺洞のすすめで号に不器男を用いるようになった。

 

大正15年「天の川」巻頭となり、「天の川」に不器男時代が出現した。原石鼎の「鹿火屋」では振わなかった。同年の「ホトトギス」12月号に二句入選。そのうちの「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」が、翌年1月号で高浜虚子の名鑑賞を受け、一躍注目を浴びる。松山の「葉桜」(塩崎素月主宰)にも投句、翌昭和2年より同誌の課題選者となる。昭和3年太宰文江と結婚。この年、水原秋桜子は「新進作家論」で不器男を推賞した。しばらく投句を休み、万葉集の研究書など読む。

 

昭和4年4月発病、九州帝大附属病院後藤外科に入院。病名は肉腫。昭和5224日、福岡市の仮寓で死去、26歳。墓は太宰家墓地(三間町)にある。「白藤や揺りやみしかばうすみどり」「泳ぎ女の葛隠るまで羞ひぬ」「寒鴉己が影の上におりたちぬ」など青春の抒情性豊かな秀句を残した。句碑が三基ある。

 

郷里の松野町では、毎年命日に「不器男忌俳句大会」が開催されている。昭和63年、松野町が生家を改装し、「芝不器男記念館」が開館した。また、平成14年、生誕100年を記念して愛媛県文化振興財団により、「芝不器男俳句新人賞」が設けられた。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料、ウィキペディアなど)

西河 通徹 ・ 郷土の先人 66

西河 通徹 (にしかわ みちつら)

 


安政3年~昭和4年(18561929) ジャーナリスト。「海南新聞」主筆として民権論を展開、多くの新聞で論陣を張り言論人として知られた。号は、鬼城山人、鬼城。旧制松山中学の3代目校長。

 

安政3年1118日、宇和島藩校明倫館教授・西河通安の次男に生まれた。藩校、次いで八幡浜の硯儒上甲振洋の謹教堂に2年間学び、明治5年17歳の時、上京して慶応義塾に入学、英学を専攻した。在学中から同郷の先輩末広鉄腸の主宰する「朝野新聞」に投稿、9年「評論新聞」に入社、この年、朝野新聞に掲載された「古来圧制政府ヲ廃スルハ国民ノ義務ナルヲ論ズ」が新聞紙条例違反に問われて、鉄腸と共に禁固刑を受けた。

 

明治10年「海南新聞」編集長に迎えられて帰県、長屋忠明らと民権結社公共社を結成した。また、北予変則中学校(のちの松山中学校)で教鞭を取り、明治13年3代校長に就任したが、愛媛県令関新平と対立したため同年に松山中学を辞して、ほどなく愛媛県を離れた。

 

以後、信濃毎日新報、房総共立新聞、自由新聞、秋田魁、絵入朝野新聞、大阪公論など10数社で論陣を張って渡り歩いた。その間、数種の翻訳があり、特に『露国虚無党事情』は、最初のクロポトキンを紹介した書物であった。 明治23年末広鉄腸の衆院選出馬のため、その主宰する関西新報を引き受けたが、ほどなく廃刊した。自信を喪失して大阪北野の禅寺に隠棲、禅の研究・漢詩に没頭する傍ら『汽車五発明』『汽車之発明』などの翻案で生計を立てた。

 

明治25年門司新報主筆として言論界に返り咲き、28年日清戦争では東京・大阪朝日新聞特派員として近衛師団に同行、日露戦争から日韓併合までを取材し、朝鮮事情に精通して他の追随を許さなかった。やがて両紙の通信員を辞任して、京城で合資会社盛文堂を設立して内地新聞の取次ぎと文房具・書籍の販売に従事した。

 

大正の初めに帰郷、大正8年『鬼城自叙伝』を書いた。その中には、終生政治家を志しながら果たせなかった悔恨が脈打っている。昭和4年9月29日、72歳で没した。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

長山 芳介 ・ 郷土の先人 65

長山 芳介 (ながやま よしすけ)


明治29年~昭和53年(18961978)実業家。

 

明治29年6月2日、宇和島運輸の創立者の一人で明治から昭和初年にかけて長く社長を務めた堀部彦次郎の三男として、北宇和郡来村宮下(現宇和島市宮下)で生まれる。宇和島運輸社長(昭和36年~47年)。

 

大正13年、慶応義塾大学経済学部を卒業。山下鉱業に入ったが、昭和3年に帰郷、長山家の嗣子となった。貸家王といわれた養父の死に伴い、宇和島銀行など三つの銀行の役員に就任したほか、昭和11年から宇和島自動車常務(のも社長)など多数の会社の経営に参画。宇和島運輸では、昭和7年商議員に就任したのを皮切りに同13年取締役、14年常務。22年常務を辞任し、取締役になった後、昭和36年9月から4712月までの11年間余り、社長の職に在った。

 

長山の社長在任の期間は、宇和島運輸百余年の歴史の中で最も苦難に満ちた時期であった。フェリー化の波に乗り遅れ収益力が落ちていたところへ、無理な資金調達で建造したフェリーが座礁沈没するなど(昭和43年おれんじ号事故)不運が相次いだ。昭和47年長山以下経営陣は責任をとって総退陣、県下随一の伝統を誇る名門企業は、再建を赤の他人の手にゆだねなければならなくなったのである。もちろん,ひとり長山の責任ではないが、長山の責任のとり方は潔かった。しかるべき人に後事を託し,経営責任を負って他の役員とともに、債務の一部を個人負担したのである。

 

昭和21年3月~40年3月まで宇和島商工会議所会頭に連続8回選ばれるなど、宇和島市を代表する顔であった。その間、県商工会議所連合会会頭を3年間務めた。また伊豫銀行取締役を昭和32年から同行が社外重役制を廃止する44年まで務めるなど、南予経済界の代表であった。

 

謡曲,清元,端唄をよくする粋人で,閑子と号して俳句をよみ,堀部公園には「まいまいの舞いつかれては草による」の句碑がある。昭和53年6月7日、82歳で病没。墓は大紹寺にある。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

都築 温 ・ 郷土の先人 64

都築 温 (つづき あつし)


弘化2年~明治18年(18451885)宇和島藩維新三功臣の一人、初代北宇和郡長。

 

弘化2年6月27日、宇和島藩士末広禎介の次男に生まれた。弟が、末広鉄腸である。通称荘蔵、号を鶴洲と称した。15歳のとき藩校明倫館教授・都築織衛(燧洋)の養子となり、都築家を家督相続した。藩校で学んだ後、伊達宗城の命を受けて京都に出て、天下の情勢を探索し勤王の志士と往来した。慶応3年1013日、徳川慶喜が京都二条城に40余藩の藩臣を召集し大政奉還の可否を求めたとき、宇和島藩を代表して出席、土佐の後藤象二郎らと共に大政奉還の急務を進言したという。

 

明治元年、宗城が外国官知事になったのに付随して、外国官判事試補を拝命した。2年帰藩して軍監・大属になった。明治9年、岩村権令により大区会が開設されると、北宇和地区の大区会議長として民会の発展に寄与した。明治10年には、特設県会に得能亜斯登・物部醒満らと共に宇和島から選ばれ、県会で官林処分・物産振興に関する建白を提議するなどした。また、明治9年に開校した南予変則中学校の経営に当った。

  

明治1112月、岩村県令の人材登用策により、初代北宇和郡長に任命され郡政を担当したが、13年岩村の転任によりその地位を辞した。その後,八幡浜に退隠して西予義塾を開き若者を教導するかたわら、酒を好み清貧に甘んじた。明治18年9月27日、40歳の若さで没した。墓は宇和島市泰平寺にあり、鉄腸撰の碑文が添えてある。また、南予護国神社の境内には都築温と伊能友鴎・得能亜斯登の「維新三功臣之碑」が建立されている。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

井関 盛英 ・ 郷土の先人 63

井関 盛英 (いせき もりひで)


生年不詳~元禄9年(~1696)宇和島藩士。幼名五郎兵衛、通称又右衛門。

 

寛文7年、郡方役人手伝として登用され、3人分6石を給された。地方巧者として寛文検地に携り、寛文12年には、1人分2石を加増された。

 

天和元年には、幕府巡見使の求めに応じ、宇和島藩内の神社仏閣、古城跡等を調査した。歴史地理書である『宇和郡旧記』4冊を著述し、藩主に献上している。同書は県内でも古い著述に属し、その実証的記述とも相俟って後世の史家に大きな便益を与えている。

 

貞享元年には、同藩の基本となる租税台帳『弌墅截』16冊を著述し、元禄3年には『源氏物語』を写書して、それぞれ藩より褒美を受けている。元禄9年死去,仏海寺(現宇和島市)に葬られる。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

伊東 米治郎 ・ 郷土の先人 62

伊東 米治郎 (いとう よねじろう)


文久元年~昭和17年(18611942)米国移住後帰国し、日本郵船会社社長になり実業界で活躍。

 

文久元年宇和島元結掛に生まれる。明治10年(異説あり)水夫として乗組んでいた外国船を脱船して、米国サンフランシスコに上陸。苦学力行してミシガン大学を卒業した。米国の西岸地方で活躍。明治20年、シアトル市において開墾事業を計画、片岡健吉の協力を得て高知県から同志10名の渡米が実現したが、無経験者集団のために失敗した。

 

明治27年頃、タコマ市に植民同盟会を組織し、定住的植民運勤を起こした。また、グワテマラ国を探検し、日本移民の送り込みを計画したが失敗した。同29年帰国、その後日本郵船会社に入社。上海・ロンドン支店長等を経て、同社社長(大正10年~同13年)を務めた。日清汽船取締役、ジャパンタイムズ社長等も歴任した。 81歳で死去。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

伊能 友鷗 ・ 郷土の先人 61

伊能 友鷗 (いのう ゆうおう)


文化14年~明治8年(18171875)宇和島藩士。同藩参政・中井筑後の弟。諱は氏就・また永憲・永弼・永錫。通称は元吉、のち逞馬・左膳・長左衛門と改める。後年、隠居後、友鷗と称した。

 

13歳で、同藩家老吉見氏の養子となった。資性謹厚で忠誠・才学兼備の士であった。天保初年、藩主宗紀の扈従となった。天保7年には宗城付となり、同8年には宗徳付に転じ,同11年養父長左衛門の隠居により家督を相続した。以後、藩政の要職にあって、藩主宗城の富国強兵策を補佐した。藩軍備の近代化に当たって、指導的役割を果した蘭学者の高野長英(伊東瑞渓と改名)と村田蔵六(大村益次郎)の宇和島藩登用にも関与した。

 

安政6年の安政の大獄の際には,将軍家定の継嗣として一橋慶喜の擁立を主張した宗城の腹心として活躍した長左衛門は、重追放に処せられた。この時宗城は、長左衛門の忠誠を讃えて、「伊達家忠能之臣」の意味をもった伊能の氏に吉見を改姓するよう命じた。そのうえ、宗城の密命によって藩政に携わり、自らは伊能下野と改名して参政の地位についた。

 

文久2年、重追放の罪を許されて、以後再び藩政の中心人物として登場し、宗城に随従して上京したうえその活躍を助けた。元治・慶応の2度の長州征伐に、藩主宗徳の参謀として出陣し功があった。慶応2年イギリス公使パークス来宇の際には、主接伴員として誠意を尽くして応接し、好感を与えた。明治元年には執政に任ぜられ,維新期の宇和島藩政に尽くした。墓は大超寺にある。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

穂積 八束 ・ 郷土の先人 60

穂積 八束 (ほずみ やつか)


安政7年~大正元年(18601912)憲法学者・明治法学界の重鎮,貴族院議員。

 

安政7年2月28日、宇和島中ノ町(現京町)の藩屋敷で藩士・国学者穂積重樹の三男に生まれた。幼名茂三郎。穂積陳重は兄である。明治6年上京して共立学校に入り、次いで外国語学校・大学予備門を経て明治16年東京大学文学部政治学科を卒業した。 17年ドイツに留学、ベルリン大学などで公法学を学んだ。21年帰国して東京帝国大学教授になり、憲法講座を担当すること20余年に及んだ。この間、法学博士の学位を受け、法制局参事官・枢密院書記官・法典調査会査定委員などを歴任した。

 

明治22年フランス民法を模範としたボアソナード民法が示されると「民法出デテ忠孝亡ブ」の論文を発表して、梅田謙次郎ら施行断行派と民法典論争を展開した。明治32年貴族院議員に勅選され、また宮中顧問官となった。終始一貫君主制絶対主義を持し、民権論者の攻撃を受けたが自説を譲るところがなかった。明治4445年の天皇機関説をめぐる美濃部上杉論争に際しては、奥田義人文相介入を働きかけ、新聞匿名の美濃部攻撃文を掲載した。

 

 明治天皇大葬参列した際にひいた風邪をこじらせ、大正元年10月5日、52歳で没した。馬で登校するなど逸話も多い。著書に『憲法大意』『行政法大意』『愛国心』などがある。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

法華津 孝治 ・ 郷土の先人 59

法華津 孝治 (ほけつ こうじ)


文久元年~昭和20年(18611945)実業家。

 

  森村組の南亜公司社長。吉田では、村井保固、山下亀三郎、法華津孝治を財界三羽ガラスと呼んでいる。戦前南洋のゴム栽培会社「南亜公司」の社長。

若いころから負けずぎらいであり、村井保固の手引きで貿易の森村組に山下と一緒に小僧に入った。山下はまもなく退社し独立していったが、孝治は森村組の事業の一つゴム栽培の主宰者となり、村井の補佐に徹した。

70歳をすぎてからも、毎年1度は南洋へ出かけ各地のゴム園を回っては指揮するという矍鑠ぶりで鳴らした。南洋協会長として、日本の南方政策にもたびたび献策もするし功績を残した。息子(長男)は外交官から極洋捕鯨社長になった法華津 孝太である。父子二代、海の男として有名。馬術で五輪最高齢出場(71)を果たした法華津 寛は、孝治の孫である。昭和20年6月23日、84歳で死去。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

山内 庄五郎 ・ 郷土の先人 58

山内 庄五郎 (やまうち しょうごろう)

 


    天保6年~大正3年(18351914) 算盤の指導者。

 

天保6年1223日、伊賀上村(現西予市)で藤蔵善美の長男として生まれる。母が土佐藩士族の娘であり,幼少のころから厳しい躾を受ける。当時は農家であり、庄五郎も20歳を過ぎるころまでは農業に専念した。至って頑固な生格で、酒を好み、腕力は人一倍強く、大酒を飲むと木剣を振り回し暴れた。だが、母には利き腕を取られ気合もろとも投げとばされるなど、母には一度も勝つことはできなかったという。

 

農業のかたわら木材の搬出、石灰石の運搬もしたが、その材積の計算ができなかった。その現場で、三角材(瓦桟)を運ぶために束にして結んでいたとき、その三角材がきれいに円柱状に結束できることに気が付いて面白みを感じた。仕事柄、木材の体積を知る方法に興味を持っていた庄五郎は、この経験をヒントに苦心の結果計算法を考え出した。庄五郎の向学心が目覚めたのは、まさにこの時からであった。

 


 
  熱中のあまり、今までのように農業や木材搬出の仕事をこなしながらでは済まなくなり、自宅の2階に立てこもった。そこで次から次へと実際の問題に取り組み、それを解決する算法の発見に心魂を傾けた。もともとの素養もなく師も参考書もないところで研究を進めることは、困難を極めた。計算には算盤が使われたが、ときには大豆を並べて自分の算法の実証や算法の発見に利用したといわれる。

 

計算の規模が大きくなってくると、そろばんを3つつなぎ合わせて使ったともいわれる。 食事も家人がそっと運んで黙っておいていくが、それが、次の食事を運んだときもまだそのままになっていることもたびたびであった。寝食を忘れるとは、このころの庄五郎にぴったりの言葉であった。それほど彼は熱中していた。2年後、四則・開平・開立・球積に至るまで、すべて算盤で解決するようになった。

 

自分の進む道が家庭生活と両立しないことを悟った庄五郎は、終生妻を迎えることはせず、自分の姪に婿養子を迎えて家業を継がせ、自分は算法発見の世界に没入していった。 この姪は、庄五郎から娘同然にかわいがられ、彼女が大病を患った際には、庄五郎は21日間断食して全快を祈ったという。

 
 

明治5年、弟に家督を譲り、算盤ひとつを持って全国漫遊の旅に出る。主に東京で算盤を教えた。商店主、小僧、番頭、官吏と、さまざまの人が教えを受けた。その数、数千人にも達し、その名簿4(連名記)と著書『算術物体細解』が、今も宇和町小学校に保存されている。

 

庄五郎が最も長く滞在したのは東京で、行脚終盤の7年間を過ごしている。紹介している写真も、帰郷前に浅草の写真館で撮影したものである。在京中、東京大学の教授と3日間をかけて競算し、勝った事もあった。立ち会った教授たちは「風変わりな田舎者」庄五郎の能力に驚嘆したという。

 

庄五郎は奇人と言われただけに、金銭にも恬淡で金を残さず、大正元年78歳で帰郷した時には無一文であった。晩年は、好きな酒に老いの身の寂しさを紛らわせる明け暮れであったという。数理に一生を捧げ、無名の人で生涯を終えた。大正3年1月3日、78歳で死去。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料、「ぴぃぷる」など

上田 武雄 ・ 郷土の先人 57

上田 武雄 (うえだ たけお)

 


明治31年~昭和56年(18981981) 明治31年1月3日、北宇和郡津島町に生まれる。

 

大正4年広島県呉市の海成中学校を卒業し、大正13年、北宇和郡岩松町役場に勤める。昭和24年、日本画大阪有秋会会員となる。同26年には、司法保護司となる。昭和5年、津島町高田八幡神社の文化財調査に参加して以来、50年の長きにわたり郷土の文化財の保存と保護に専念する。その間、昭和37年には津島町の文化財保護専門委員会議長、同40年には、県の文化財保護協会常任理事に就任し、同45年には文化財功労感謝状を文化庁より受賞する。

 

旺盛な研究心をもって郷土の文化財を調査研究し、県下に先駆けて文化財保護条例の制定に尽力した。昭和48年、南予文化団体連絡協議会副会長となり、同51年には、町の文化財保護審議会会長となる。同55年愛媛県教育文化賞を受賞する。

昭和561210日、83歳で死去。

  (参考・愛媛県生涯学習センター資料)

岩村 昇 ・ 郷土の先人 56

岩村 昇 (いわむら のぼる)

 

昭和2年~平成17年  医学者医師宇和島市出身。

 

昭和2年、宇和島市に生まれ、青年時代に渡米経験を持つ実業家の父親と、敬虔なクリスチャンの母親のもとで育った。岩村少年の夢は、キリスト教会で教えられた「良きサマリヤ人」のように、人々を助ける人になることだった。

 

広島での被爆体験から医療の道に進み、昭和22旧制松山高等学校に編入、同29鳥取大学医学部を卒業後、鳥取大学医学部助教授を経て、日本キリスト教海外医療協力会からの派遣ワーカーとして、昭和37ネパールに赴任した。

 

当時国民の平均寿命が37歳というネパールで、以後18年間、結核ハンセン病マラリアコレラ天然痘赤痢等の伝染病の治療予防として栄養改善のために、岩村(旧姓:門脇)史子夫人と共に貢献した。

 

帰国後、神戸大学医学部教授として教鞭をとった。 「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞。

平成1711月27呼吸不全で逝去。享年78歳。

(参考・ウィキペディアなど)

山本 敏太郎 ・ 郷土の先人 55

山本 敏太郎 (やまもと としたろう)


 
       

明治39年~昭和48年(19061973) 酪農振興の功労者。

 

明治39年6月29日、北宇和郡三間町元宗で生まれる。北宇和郡酪農業の育ての親として、また県酪農組織の育成など、本県酪農振興の功労者である。昭和2年3月、愛媛県立師範学校を卒業後、昭和21年3月まで地域の小学校で教育に従事する。

 

その後、昭和25年7月、選ばれて地元三間農業協同組合長として昭和39年まで務めた。この間、三間町町会議員、同農業委員、三間高等学校PTA会長の外、昭和32年5月には、北宇和酪農業協同組合長をも兼任した。酪農の重要性を痛感し、情熱を燃やし酪農の生産指導事業を手はじめに、酪農婦人部の結成、乳質改善事業に取り組むほか、生乳の処理加工販売事業の拡充を図るため宇和島工場を建設するなど、基盤整備に尽瘁した。

 

また、組織体制の確立を訴え、遂に昭和37年には、八幡浜、西宇和、城辺酪農組合を吸収合併して、待望の南予酪農業協同組合を創設し地域の大同団結を図った。これは、やがて県酪連創設への大きな支えとなった。昭和40年県酪連の発足に当たり、その理事となり,また42年には県酪連常務理事に就任し、全県的な酪農の振興発展のため県酪連組織の育成強化に努めた。加えて、系統の販拡には四国が協同すべきだとして、四国乳業㈱が設立された昭和43年には専務理事となり、草創期の苦難な時期に諸施策を推進し,多くの事績をあげた。農協乳業の確立に貢献した功績は、大なるものがあった。

 

昭和29年以降、全国農協中央会長はじめ12回の表彰を受けた。昭和4810月1日、67歳で没す。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

松尾 武美 ・ 郷土の先人 54

松尾 武美 (まつお たけよし)


   明治44年~昭和50年(19111975) 果樹栽培技術の普及、果樹研究青年組織の育成、青果団体の発展等に多くの事績をあげた。

 

明治44年1月5日北宇和郡高光村(現宇和島市)に生まれ、後に立間村松尾家に入る。鹿児島高等農林学校卒業後、愛媛県農事試験場南政柑橘分場に勤務し、果樹栽培技術の指導普及に尽した。

 

昭和22年愛媛県果樹園芸研究青年同志会を創設して会長となり、荒廃した果樹園の復興に情熱を注いだ。昭和23年全国果樹園芸研究青年同志会を組織し、会長となる。昭和26年宇和青果農協長となり、さらに県青果農協連合会の副会長として活躍した。

 

また、昭和30年~昭和50年にわたり、県議会議員(40年、県議会議長となる)として農政と地方自治に貢献した。昭和48年藍綬褒章受章、昭和50年吉田町名誉町民となる。昭和50年8月10日、64歳で死去。昭和53年胸像建立(吉田町立間宇和青果農協第一共選場)、従五位勲四等に叙せらる。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

山本 信哉 ・ 郷土の先人 53

山本 信哉 (やまもと のぶき)


 

明治6年~昭和19年(18731944)歴史学者。

 

明治6年7月19日、宇和郡白浦(現宇和島市吉田町)の森家に生まれる。後に、山本家の養子になる。広島の修道学校(現修道高等学校)に学び、国学を三上一彦に師事する。国学院(現国学院大学)を卒業後、明治29年から神宮司庁に勤め、『古事記類苑』の編纂に従事する。大正6年、東京帝国大学史料編纂官になり、同10年、国学院大学教授を兼任する。大正12年、『日本神道史の研究』で文学博士となる。

 

『神道要典』『神道綱要』など、神祇史の研究では、我が国の権威者であった。『伊予史料』(35冊未完)その他、著作も多い。伊予史談会の顧問も務めた。昭和191218日、71歳で死去。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

山家 清兵衛 ・ 郷土の先人 52

山家 清兵衛 (やんべ せいべえ)


生年不詳~元和6年(~1620)宇和島初代藩主秀宗の時の家老。和霊神社祭神。

 

秀宗の宇和島入部に際し、政宗により家老に抜擢された。入部の費用、大坂城修築の工事費の捻出に苦心し、その返済のための緊縮政策が桜田玄藩等対立者の反感を買った。秀宗の不満も加って、上意討と称する一団によって元和6年629日暗殺された。死後、対立者側に変死が相つぎ、清兵衛の崇りと言われた。初め児玉明神として祀られたが、承応2年桧皮森に移されて山頼和霊神となった。

 

家老暗殺という藩の命運にもかかわる事件であったため、清兵衛の生涯や事件を伝える資料は遺されていない。しかし口碑伝承としてこの事件は語られ、それを基にして『和霊宮御実伝記』『和霊宮御霊験記』(両書とも同内容)の実録物がつくられ、写本として多く流布した。さらに、『予州神霊記』等の小説化された実録物、講談本が出回り、浄瑠璃・歌舞伎にも脚色された。これらの資料に伝わる清兵衛は虚像だが、清兵衛は小天神として崇められ、「和霊信仰」の中に生きていると言える。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

三好 竹陰 ・ 郷土の先人 51

三好 竹陰 (みよし ちくいん)


   文化12年~明治22(18151889) 医師。宇和島の藩医であり能書家でもあった。名は周伯、順庵と称したが、のち順風と改めた。

 

幼少のときから書が巧みで、南昌老公(伊達村寿)が彼を召して揮毫せしめ、激賞したという。医師としてより書家として有名になり、竹陰の使い古した大小の筆を埋めて筆塚をつくることが、左氏珠山ら雅人によって計画され、土居通夫らによって宇和津彦神社の境内に建てられた。明治221224日死去、74歳。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

三好 応山 ・ 郷土の先人 50

三好 応山 (みよし おうざん)


寛政4年~嘉永2年(17921849) 絵師

 

宇和島本町の代々町頭役紺屋頭取の家に生まれる。本名は三郎兵衛、応山と号す。幼時から絵を好み、家業のかたわら土佐派の春日鉄山について絵を習った。自ら京風の画工をもって任じ、藩の求めにも応じ風土派を形成する。長男に家督をつがせ、次男又八郎(号応岸)に画業をつがせ分家させる。

 

応山・応岸の作は多く遺っているが,宇和島の伊吹八幡神社の「高砂図」「神功皇后図」などの絵馬が知られている。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

浦和 盛三郎 ・ 郷土の先人 49

浦和 盛三郎 (うらわ せいさぶろう)


   天保14年~明治25年(18431892)  金輪網の発明者で、明治時代における本県まき網漁業発展の基礎をつくった人。


   天保1411月3日、宇和島藩内海浦(現南宇和郡愛南町)網代に生まれる。浦和家は高知県幡多郡平田村(現宿毛市平田町)より出たもので、代々神官であった。祖先和田又四郎が諸国を遊歴し、内海の魚神山に来て農業を営んだ。その子儀左衛門(盛三郎の祖父)が家業を継いで、文化5年2月、由良山というところで浦を開拓しようと同志20名を募って、翌年山林を焼き払い開墾に取り組んだ。だが,その年に儀左衛門は死亡した。孤子となった萬蔵の生活は父からの遺産をすべて消費し、困窮を極めた。海草を採り、釣をするかたわら、人夫で賃金を得ての貧しいものであった。

 

文政4年(1821)頃、やっとつくった農作物を猪や鹿に食害され、その対策に頭を悩ませていた。そんなある日、萬蔵が山に登って眼下の海をながめたところ岸近くを魚の大群が遊行するのを見て、今後の生活のよりどころを漁業と決心した。その後火災により財産を失くしたりして困難にも遭遇したが、弘化3年には網代長を拝命し、その翌年には功により苗字呼ぶことを許され,浦和盛次兵衛(のち平内と改める)と名乗った。

 

浦和盛三郎は、父萬蔵,母シュンの末子として生まれた。長兄寿老左衛門に子がないため、明治3年、28歳で養子となって家督を相続した。盛三郎は荘重で、寡言静かに図り、決断力に優れ、威厳を備えていたという。当時の経営状況は、漁業は大敷網3帖(定置網の一種)と鰯網2帖(船びき網)を主体として、農業では小作料と自作収入によって生活を維持していた。広大な土地を所有していたが、その大部分を地元民に開放し、信頼と服従を得ることができた。これはやがて、漁業や漁獲物の加工従事者との雇用関係を緊密なものとさせる原動力となった。

 

漁業の面で最も力を注いだのは大敷網であったが、盛漁期には数千尾のまぐろやかつおその他の魚で活況を呈した。一時に大豊漁となる漁獲物の有効保存について研究し、まぐろ等の塩蔵や燻製を行うため、網代に大加工場を建設した。これは、当時としては全国でも有数の大規模なものといわれた。先見の明があった盛三郎は、今後の漁業は沖取漁業をおいてほかにないものと考え、明治20年にその研究を開始した。そして、明治22年8月23日付で県から操業の許可を得た。この漁法は金輪式と呼ばれるまき網漁法の一種で、明治14年に農商務省技師関沢明清が、米国から導入した米式巾着網の長所を取り入れて開発した。盛三郎は、これに独特の改良を加えて完成したもので、本県独自の技術開発によるものとして注目された。明治年代における巾着網の発達に、強烈な刺激を与えた意義は非常に大きい。

 

また、明治20年に定められた漁場借区制に伴う、南宇和郡関係の第23漁区の取締りを務めたほか、明治19年4月1日には第15水産区組合の南宇和郡組合の頭取に選出され、大分県、高知県等、隣県との漁業調整に尽力した。明治22年には、綿漁網の開発や砲殺捕鯨法を考案した。

 

漁業以外でも銀行の設立、運輸・水産物流通機構等の改善に努めたほか、村会、郡会、県議会の各議員としても活躍した。このように多岐にわたって活躍したが、明治2510月6日、48歳で松山市の客舎で没した。明治31年9月網代では氏の功績に報いるため地元に頌徳碑を建立している。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

宇都宮 勇太郎 ・ 郷土の先人 48

宇都宮 勇太郎 (うつのみや ゆうたろう)


明治30年~昭和45年(18971970)  畜産・蚕糸功労者。

 

明治301018日東宇和郡野村町野村に生まれた。大正10年、野村町産業技手に就任。当時は雄牛肥育を重点畜産としていたが、大正15年に至り、郡畜産組合の総会において酪農導入のための調査研究をすることが決議された。その後、昭和8年野村町農会長となるも、12年以降は戦乱時代と化した。主殺偏重が続く中にも酪農への夢捨て切れず、昭和18年2回にわたる先進地の視察の結果、翌19年には有志適格者78名で構成する野村酪農実行組合(任意)を結成した。

 

自らが組合長となり、野村種畜場とタイアップして乳牛の導入を推進した。昭和19年からは、農業会長あるいは町長ともなり、直接間接に酪農業の指導奨励に尽酔し、生産に併行して処理販売事業も進め、20年には明治乳業の生乳受入れ操業が開始せられるまでになった。次いで、昭和22年には、酪農模範村の指定となり、町専任畜産技師も設置された。23年、野村町酪農業協同組合の結成に当たっては顧問となり後進の指導に当たっていたが、26年7月野村町酪農業協同組合を発展的に解消し郡一円を区域とする東宇和郡酪農業協同組合の設立を見るに至った。推されて組合長となり、昭和30年から一期県議会議員を務めた。

 

昭和3012月、県畜産功労者として知事表彰を受け、また東宇和郡酪農振興対策協議会設立、酪農同志会の結成など数々の事績を残し、さらに酪農創業10周年記念事業として組合事務所を移転改築するなど、その功績は誠に偉大なものがあった。また、この外愛媛県酪農協会長、東宇和郡蚕糸農業協同組合長など、数多くの役職を歴任した。「ミルクとシルクの町 野村町」を築き上げた功労が評価され、昭和3611月黄綬褒章を受章するなど、相次ぐ表彰に輝く生涯であった。昭和451024日、73歳で他界した。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

村松 恒一郎 ・ 郷土の先人 47

村松 恒一郎 (むらまつ こういちろう)

 

元治元年~昭和15年(18641940)    言論人、衆議院議員。

 

元治元年4月24日、宇和島城下笹町で、士族村松喜久蔵の長男に生まれた。宇和島市長山村豊次郎は実弟である。末広鉄腸を頼って上京、国会新聞、次いで大阪の関西日報・東京朝日新聞の記者で生計を立てた。早くから国政への志を持っていたが、なかなか果たせず、明治41年5月の第10回衆議院議員選挙に、郷里愛媛県郡部選挙区で憲政本党から立候補して初当選した。この時、すでに44歳に達していた。明治45年5月の衆議院議員選挙では次点に甘んじ、大正4年3月の選挙でも落選した。その間、所属する国民党が分裂して同派代議士の多くは立憲同志会に走ったが、本県で唯一人国民党に留まり、孤高の政治家といわれた。

 

大正6年4月の第13回衆議院議員選挙に、国民党公認で再度挑戦、最高点て当選して復活した。しかし、大正9年5月の選挙では、再び落選した。この前後に犬養毅・尾崎行雄らと普選運動に従事し、その最初の普選である昭和3年2月の、第16回衆議院議員選挙に当選して国会に返り咲き、次の5年2月の第17回選挙でも再選された。

昭和7年2月の第18回衆議院議員選挙には、弟の山村豊次郎が政友派から推されて立ち、民政党に属する村松との兄弟対決かと騒がれたが、恒一郎は老齢を理由に立候補を辞退して弟に座を譲った。常に貧乏候補で選挙ごとに辛酸をなめたが、正直で物ごとにこだわらない壮士風の肌合いが多くの人々に愛され、個人的人気を支えた。

 

昭和15年6月5日、76歳で没した。東洋大学の文学部長を務めた詩人の村松正俊は長男である。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

猪崎 保直 ・ 郷土の先人 46

猪崎 保直 (いざき やすなお)


   嘉永6年~明治43年(18531910)   かつお漁業に本県で初めて通い舟(運搬船)を採用したほか、石油発動機付漁船の利用を案出し、同漁船の機械化を進めた。かつお節製造発達への貢献者でもある。

 

嘉永6年8月18日、宇和島藩外海浦(現南宇和郡愛南町福浦)で父與太郎、母リセの長男として生まれる。保直は当初船舶による運搬業とかつお一本釣漁業,、かつお節製造業のほか酒造業等多角的経営によって生計を立てていた。機を見るに敏で、先見の明があった保直は、事業に対する研究心がきわめて旺盛であった。

 

南宇和郡地方のかつお節製造は、かつお一本釣漁業の歴史とともに遠く藩政時代にさかのぼる。かつお節製造業者はほとんどがかつお一本釣漁業者であり、漁船はすべて押し舟に頼っていたため、漁場からの帰港に長時間を要していた。かつおの鮮度が落ち,かつお節の製品も不良品が多く、業者はこれに悩まされていた。保直は、この解決策として「通い舟」(沖合漁場に出ているかつお舟に餌を補給し,漁獲物を直ちに持ち帰る舟)を採用して、魚の鮮度を図ったため宇和節の声価を高めた。が、これに満足せず、さらに進んでかつお一本釣漁船の動力化を思いついた。

明治35年、静岡県にただ一隻あった動力かつお漁船を見学し、これを機に当時御荘~宇和島間に貨客船として就航していた御荘丸を庸船し、沖之島沖漁場へかつお船を曳船した。このことは、本県におけるかつお漁業に一大革新をもたらせたもので、たちまち同地方の同業者へ大きい影響を及ぼした。それ以来、かつお漁船の動力化か急速に進み、明治42年5隻に、同4316隻に、同44年に至って21隻にまで急増するに至った。

 

保直はこのほか、かつお節製造業の不況を克服し発展させるにはかつお漁業の漁ろう組織の改善が不可欠であると考え、従来の漁獲物の歩合制を改め、被雇船と称する組織として自ら資本を醵出して従事者に給料制を採用した。整然とした就業方式によって事業の運営に当ったため業績はきわめてよくなり、同業者も争ってその方法を採り、かつお一本釣漁業は、明治の終りころから大正時代に入って非常な活況を呈することとなった。

 

保直は、かつお一本釣漁業をもとに南宇和郡漁業界の重鎮となり、屈指の資産家として名を成したが、自らは常々おごりを戒め勤倹を旨とした。反面、事あれば私財をなげうって難に処するといった具合で人望もあった。明治43年9月16日、長崎の客舎で没、57歳。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

山崎 惣六 ・ 郷土の先人 45

山崎 惣六 (やまざき そうろく)


天保14年~明治26年(18431893)     宇和島の志士・政治運動家・初代宇和島町長。

 

天保141210日宇和郡御荘に生まれ、安政2年宇和島藩足軽になった。剣術の達人として知られ、伊達宗城の警固を務め慶応2年山崎家を継いだ。明治13年国会開設請願運動の時期、宇和島に蟻力社を組織して愛国社の集会に加わるなど民権運動に従事した。明治20年の三大事件建白運動では、坂義三に勧誘されて宇和四郡の署名集めに奔走、警察の「政党員名簿」には、「温和ノ性ナレトモ,事二因り頗ル活発決シテ人二譲ラサルノ気性アリ」と記録され、宇和島を訪れる政治活動家は必ず山崎を頼ったといわれるほどの人望家であった。

 

  明治23年町村制施行に際し、推されて初代宇和島町町長に就任した。明治26年6月28日、49歳で没し宇和島西江寺に葬られた。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

井関 邦三郎 ・ 郷土の先人 44

井関 邦三郎 (いせき くにさぶろう)


明治32年~昭和45年(18991970)   実業家。

 

愛媛県北宇和郡三間村務田(現宇和島市三間町)で、明治32年7月2日に生まれる。大正3年、三間村高等小学校卒業。大正8年,21歳の時郷里で松山市大野商店の除草機の販売をはじめ、大正13年、三間村で大野式除草機などの製造を開始、井関農具製作所と称した。これが、後の井関農機の母胎である。


販路を九州の熊本に拡げたが、熊本の共進会で見た岩田式籾はぎ機に心を奪われ、それと高知の山本式自動選別機とを組合わせて、高性能の全自動籾すり機の完成に成功した。その製造のために、大正15年松山市新玉町(現湊町)に工場を移し、井関農具商会と改称した。

 

昭和6年、株式会社に改組。販売提携のため大阪の資本と合併し東洋農機となったが、わずか1年で分離して、昭和11年に井関農機株式会社を設立して今日に至っている。昭和20年の空襲によって本社・工場は灰燼に帰したが、農地改革後の農業機械化ブームに乗って、またたく間に復興,耕耘機・コンバイン・トラクター・田植機を次々と開発して、井関農機をして我が国でもトップクラスの総合農機メーカーに育て上げた。

 

昭和35年、井関農機は株式を上場し、愛媛を代表する全国的企業となった。彼は東南アジアや中国本土への農機具の輸出に早くから目をつけ、昭和40年、67歳で訪中農業機械工業代表団団長として中国本土を訪れている。また、愛媛工業クラブ会長、松山商工会議所会頭、松山経営者協会長、済美学園理事長などを歴任して地域の発展に尽くした。趣味は囲碁。日本棋院7段。日本棋院愛媛県支部長。小山久良棋士を師とも友ともし、愛媛県における囲碁の普及に大きく貢献した。理事長であった済美高校に囲碁部をつくり、婦人のための囲碁クラブ芝蘭会を誕生させたのも彼である。また、花を愛し、万翠荘での菊花展、バラ展を発会させた。愛媛県教育文化賞、愛媛新聞賞等を受賞。また、県内の農業発展のため井邦賞の基金を残した。昭和451011日死没、71歳。

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

昭和12年の耕運機

八幡屋 春太郎 ・ 郷土の先人 43

八幡屋 春太郎 (やわたや はるたろう)

 

 

明治24年~昭和41年(18911966)   大同海運専務、広海汽船社長。

 

明治24年2月17日北宇和郡宇和島町向新町(現宇和島市)に生まれる。宇和島中学(現宇和島東高)、第五高等学校を経て、大正6年京都帝大法学部を卒業。銀行勤務の後、大正7年山下汽船に入社、営業部近海主任、近海課長を務めたが、昭和5年、大学の先輩にあたる田中正之輔や同郷の崎山好春、濱田喜佐男ら同志と大同海運を設立。9年東京支店長、12年取締役、14年専務に昇進した。戦前、日本海運界で異色のオペレーターと言われ同社の中核を担った。

 

戦後、昭和27年同社の子会社広海汽船の社長に就任、現職のまま病没。第二次世界大戦下の昭和19年には請われて国策団体・船舶運営会運航局長に就任、業界に多大の貢献をした。また、戦前の一時期、辰馬汽船(のちの新日本汽船一山下新日本汽船)の取締役も兼ねた。

 

大学時代はボート部の選手として活躍、自ら「大津大学卒業」と称していた。おおらかで小事にこだわらず、無欲恬淡の人柄であった。趣味はゴルフ。昭和41年2月23日、75歳で死没。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

春太郎の胸像(赤松遊園地)

能島 通貴 ・ 郷土の先人 42

能島 通貴 (のじま みちたか)


明治24年~昭和32年(18911957)     教育者。

 

明治24年8月27日宇和島に生まれる。大正12年、豊後水道の孤島・日振島能登小学校に校長として赴任した。昭和2年、能登・喜路・明海小学校の三校が合併して日振島小学校となったが、続いて校長を務めた。昼は複々式の授業をし、夜は自力で島の青年たちのために夜学を開いて導いた。

 

過労のために45歳で失明して退職するが、続いて社会教育に尽力し、教育文化に貢献した。昭和27年には第一回の愛媛県教育文化賞を受ける。昭和32年3月1日、65歳で死去。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

中井コッフ ・ 郷土の先人 41

中井 コッフ (なかい こっふ)

 

明治14年~昭和37年(18811962)      医師、歌人。

 

明治14年6月23日、北宇和郡来村保田(現宇和島市保田)に生まれる。本名謙吉。明治40年、愛知医学専門学校卒業。病院勤務の後、同42年、宇和島で小児科・医を開業。南予小児科医の鼻祖として、特に乳のみ児の診療に名声を博した。

 

 18歳頃より短歌の道に入り、大正8年、橋田東声の「覇王樹」に参加した。後に、同人となる。この年、脳卒中にかかり右半身不随となるが、病苦と闘いながら医道と歌道に励んだ。若い頃,京都絵画専門学校で学んだこともあり、画道・書道においても巧みであった。県下を代表する歌人で、5万8千首の作品を残している。歌集に『山水』 (昭和14年)、『山雨』(同年)、『乱蛩』(同23年)がある。晩年、南予各地の有力歌人は、ほとんど中井の傘下にあった。

 

医学生のころよく焼き鳥を好んで食べ、特にそのカシラばかりを食べていた。学友たちが面白がって、ドイツ語で「フォーゲル・コップ(鳥の頭)」という渾名をつけた。そこでコップと雅号を選んだが、コップ酒のコップと間違われるために、半濁音をとってコッフと号するようになった。

 

彼の業績の一つとして、浪花節を「浪曲」と名づけたことが挙げられる。当時、浪花節は品格の低い庶民の娯楽と見られ、その芸術性は省みられなかった。コッフは浪花節のファンであり、とくに桃中軒雲右衛門に心酔していた。そこで浪花節の芸術性を訴えるために、謡曲の名にもじって浪曲という呼称を創案し、日本中に広めたのである。それにちなんだ歌もある。

浪曲と吾改称し優越感

持ちて語りしその浪曲を

義士伝を語りて居れば自ずから

吾雲右衛門になれる心地す

 

 

昭和33年、県教育文化賞を受賞。宇和島城長門丸に歌碑がある。昭和37年3月18日死去、80歳。

 

夕山に啼きのこりたる鳥の声

一つひびきて静かなるかも

 

山の雨早や眼交ひに降りおりて

道べの小田に音たてにけり

 

山の中の昼も日の目のささぬ家

白き鶏数多飼ひ居り

 

向っ嶺に日の入り行きて久しきに

山鼻ゆ日光峡のねにさす

 

足びきのみやま川とんぼあわれなり

人をおそれず帽子にとまる

 

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料、那田尚史の部屋ver.2など)

松根 図書 ・ 郷土の先人 40

松根 図書 (まつね ずしょ)


文政3年~明治27年(18201894) 幕末の藩政を担当した宇和島藩家老。

 

文政3年12月7日、松根図書壽恭の次男として生まれた。幼名豊次郎のち内蔵、図書と称す。諱は義守のち紀茂。三楽また竹画をよくし緑堂と号した。天保5年1834)七代藩主宗紀の扈従となり、同14年扈従頭となる。この頃宗紀は,父親の図書に全幅の信頼を寄せ「悉く委任仕候」と言っている。

 

弘化4年(1847)若年寄となり、嘉永4年(1851700石の家督を継ぎ、安政2年(1855)家老職となり学校頭取を担当している。その後財務と民政を担当し、八代藩主宗城が国務に奔走するのを助けた。

 

大坂の御用商人加島屋作兵衛を退けて井上市兵衛とし、長崎行の時には藩内八幡浜の商人を同伴して外国貿易に従事させ、さらに富商富農に苗字帯刀を許して冥加金を納めさせるなどの政策をとった。農業については野村井堰の修築や、岩松河線の変更を行って増収に努めている。国事に関しては、宗城の意を受け、各地の志士、人材の保護に努めた。

 

安政3年頃、大老井伊直弼は宗紀に、図書を出府させないよう注意しており,その動きを監視していたことが分かる。同藩の吉見長左衛門が安政の大獄で重追放となったが、図書が免れたのは出府しなかったためだと言われる。

 

 

元治元年(1864)には、長州処分に係わり藩を代表して安芸に赴き、第二次長州征伐に際しては、その善後策を進言している。剛気果断な性格で、左氏珠山などの反対者もあったようである。
慶応4年(1868)隠退。明治27年死去。享年73歳。法名は、靖簡院殿悠翁三楽居士。金剛山大隆寺(現宇和島市)に葬る。大正8年(1919)、正五位を追贈される。俳人の松根東洋城(豊次郎)は孫にあたる。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

土谷 フデ  ・ 郷土の先人 39

 

土谷 フデ (つちや ふで)


明治8年~昭和19年(18751944) 女姓教育者。県下最初の女性校長。

 

建築設計士の父久治郎の長女として、明治8年に宇和島市富沢町に生まれる。同30年にお茶の水の女子高等師範学校を卒業。福岡県尋常師範学校を振り出しに教壇に立ち、同34年奈良県高等女学校から郷里の宇和島高等女学校に転勤。それ以後、宇和島を出なかった。大正3年、宇和島実科女学校の校長に就任した。女性の校長として、私立時代から県立家政高女となるまで17年間務めた。

 

教育者としてのフデは、その時代の女学校教育、いわゆる良妻賢母型の教育に身をもって範を示し、家庭生活もなかなか厳しかった。自分の主張を押し通すシソの強さは、婿養子に入った夫・頼三郎の温厚な人柄とは必ずしもうまくいかなかったようである。

 

校長としては、設立主体がたびたび変わり、校舎の移転・新築もあり、多忙な毎日であったが、これらの波を乗り切った経営手腕は高く評価されている。強い性格だけでなく、政治的にも優れたものをもっていたようである。校長としての激務、一家の主婦、好人物の銀行員の夫と三児を抱えての生活は、全く暇のないきびしいものであった。


 
  

昭和6年教育界を去り、夫とも離婚して呉にいる長男のもとに身を寄せ、再び故郷を見ることはなかった。昭和19年鹿児島市で死去、69歳。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

末広 恭雄 ・ 郷土の先人 38  

末広 恭雄 (すえひろ やすお)


明治37年~昭和63年(19041988)  学者・農学博士。

 

東京で明治37年6月14日、父末広恭二(物理学者・東大地震研究所長)の子として生まれる。本籍は宇和島市本町119で、祖父は政治小説・評論家の末広鉄腸である。東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を経て、1922に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その後、第八高等学校 (旧制)を経て、昭和4年、東京帝国大学農学部水産学科を卒業した。農林省水産試験場勤務の後、同19年から東京大学教授となり同40年に退官し、東大名誉教授となる。

 

昭和42年から京急油壷マリンパークの取締役・同水族館長を務める。魚学の第一人者で〝さがな博士〟として有名であり、昭和30年から同34年まで皇太子殿下に魚学を進講する。特に、地震発生前の魚類の異常行動に関する研究は注目を集めた。〝生きた化石〟シーラカンスの学術調査隊の総指揮をとり、同61年7月にはアフリカ大陸東岸でシーラカンスの海中遊泳撮影に世界で初めて成功した。水族館では,さまざまな魚の生態を応用し「魚の音楽会」などを催し、ユニークな経営ぶりで子供たちにも喜ばれた。

 

作曲もプロ級で,東京大学の応援歌「足音を高めよ」や、サトウ・ハチロ―作詞「秋の子」宇和島城東中学校の校歌などの作品があり、日本作曲家協議会特別会員でもあった。著書には『魚類学』『ものいう魚たち』『魚の生活』など、多数がある。昭和50年には、勲三等旭日中綬章を受ける。昭和63年7月14日死去、84歳。

(参考・ウィキペディア、愛媛県生涯学習センター資料など)

木村 鷹太郎 ・ 郷土の先人 37

木村 鷹太郎 (きむら たかたろう)


明治3年~昭和6年(18701931主に明治・大正期に活動した日本の歴史学者哲学者言語学者思想家翻訳家。独自の歴史学説「新史学」の提唱者として知られる。

 

  宇和島・竜華前で生まれる。明治21年、明治学院に入学した。島崎藤村・戸川秋骨らと同級生となり、英語弁論大会で一等になったものの、言動にすこぶる異様なものがあってヘボン校長から退校処分を受けた。東京帝国大学歴史選科に入り、後に、哲学選科に転学する。卒業後、陸軍士官学校教官を務めるが、上司と衝突して辞職、新聞記者となる。同30年、井上哲次郎、高山樗牛らと「大日本協会」を結成し、日本主義を鼓吹する。一時結婚のため帰郷し「京華日報」に入社するが、長くは続かなかった。

 

   同34年から翻訳・著述に専念し、特にバイロンの研究に新機軸を展開、『バイロン文界の大魔王』『バイロン評伝及詩集』を発刊する。

明治44年に発表した『世界的研究に基づける日本太古史』という大著で、とんでもないことを言い出したのである。イザナギとゼウスを、オオクニヌシとダビデを、タケイカヅチとモーゼを比べ、高天原をアルメニアに、出雲大社をメコン川流域に比定し、神武天皇の東征はアフリカ西海岸からの発信だったとしたばかりか、大半の世界文明は日本が起源であるという破天荒な妄想を一挙に披露したのだった。


   そればかりでなく、みずから「日本民族研究叢書」と銘打ったシリーズで、『神武帝の来目歌はビルマ歌』『日本民族東漸史』『トマスモア「ユウトピア国」は我が日本津軽』『天孫降臨史の世界的研究』などと題しては、あたりかまわぬ日本=世界同根説をまきちらした。なかにはホメロスの『オデュッセイア』は『平家物語』や『太平記』を下敷きにしたものだなどという、噴飯仮説がわんさとまじっていた。

 

その他、邪馬台国エジプト説や、仏教・キリスト教批判などの独創的な主張をした。異論に対して徹底的に反撃・論破する過激な言論人でもあり、論壇において「キムタカ」と通称されて恐れられ、忌避された。その研究の多くは存命中から異端学説と見なされた。代表的著作に『世界的研究に基づける日本太古史』など、翻訳に『プラトン全集』などがある。東洋大学創立者井上哲次郎とは親友であった。

また与謝野鉄幹と鳳晶子の仲人をしたことは、後に晶子が鷹太郎の著書に賛歌をささげる由縁である。昭和6年7月18日、61歳で死去。

(参考・ウィキペディア、愛媛県生涯学習センター資料、偽史冒険世界など)

木村鷹太郎

簡野 道明 ・ 郷土の先人 36

簡野 道明 (かんの みちあき)


慶応元年~昭和13年(18651938) 漢学者。

 

吉田藩士簡野義任の于。江戸吉田藩邸で生まれる。明治2年、帰郷し狩谷檀斎(江戸中期の国学者)に私淑する父に学んだ。次いで、森蘭谷、兵頭文斎に師事した。

 

明治17年、愛媛県師範学校卒業。県内や兵庫県の小学校に7年勤務したのち、同29年、東京高師国漢専修科卒。東京師範学校教諭を経て、同35年東京女子高等師範学校教授。

 

後、辞して中国に遊学し彼の地の学者たちと交わり、古書の採集、史蹟名勝の探求に専念した。以後、経学研究と辞典編さんに没頭した。『故事成語大辞典』など著書多数がある。大正12年、20余年心血を注いだ『字源』を刊行、不朽の名著と称される。

 

戦前の中等教育における漢文教育の権威であり、彼の編纂した教材は多くの中学校などで使用された。高見順の作品「わが胸の底のここには」、加藤周一の回想記『羊の歌』には、簡野の教材が使用された記述がみえる(いずれも府立一中である)。

 

学生時代、友達のために往復約80kmの道のりを歩き本を買いに行ったり、進学できない友人のために講義録をすべて送ったりなど、友情に厚い人物でもあった。

 

昭和13年2月11日死去,73歳。墓地は東京小石川伝通院にある。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

簡野道明

二宮 敬作 ・ 郷土の先人 35

二宮 敬作 (にのみや けいさく)


文化元年~文久2年(18041862) シーボルトに学び現在の東宇和郡宇和町卯之町に開業した蘭方医。如山と号す。

 

文化元年5月10日、宇和島藩領磯崎村(現西予市保内町磯津)で、半農半商の父六弥の長男として生まれる。文政2年長崎に行き、通辞の吉雄塾でオランダ語を、蘭医学を美馬順三に学ぶ。次いで、来日したシーボルトに師の美馬とともに師事し、鳴滝塾に学んだ。学資の不足がちであった彼は、シーボルトのもとで植物採集や調薬、翻訳の仕事を手伝いながら学ぶ生活であったので、師弟の情愛も一段と深かったようである。シーボルト著の『日本植物誌』中に、敬作の名がつけられた植物が見つかることや,シーボルトの娘イネの養育を依頼されたことなどからも、それが窺える。同門には、高野長英や小関三英、伊東玄朴や石井宗賢らが居た。

 

文政11年、シーボルト事件に連座して、翌年6月まで投獄された。シーボルト事件とは、シーボルトが帰国する際、たまたま起こった暴風雨のために乗船が難破し、積み荷が調べられた。ところが、シーボルトがオランダへ持ち帰ろうとした荷物のうちに、伊能忠敬(いのうただたか)作成の日本地図など多くの禁制品(国禁)のあることが発覚した事件のことである。

 

江戸と長崎で行われて幕府の取調べは長引き、シーボルトはおよそ1年間出島(でじま=鎖国時代唯一の貿易地。寛永11(1634)年に、江戸幕府が長崎商人に命じて長崎港内に築かせた4000坪ほどの扇形の小島。初めポルトガル人を住まわせ、のち平戸のオランダ商館を移転させた。明治初年に埋め立てられ、現在は長崎市の市街地の一部になっている。なお、当時遊女のほか女性は出島へ入ることができなかった)に拘禁された。1829年9月25日(陽暦10月22日)「日本御構(おかまえ)」(追放)の判決を受け、同年12月追放された。この折、敬作は同門の阿波(徳島)出身の高良斉(こうりょうさい)とともに漁師に変装し小舟に乗って旅行くシーボルトを見送った。

 

長崎では、門人の敬作や高良斎のほか、出島絵師川原登与助(とよすけ)はじめ、通詞(つうじ=通訳。江戸時代、外国貿易のために平戸・長崎に置かれた通訳兼商務官)の馬場為八郎から召使いに至るまで、50数人が処罰された。

 

敬作は、半年の入獄の後、富士山の測量も災いして江戸を追われ(江戸立ち入り禁止)長崎からも追放されたため、文政13年、故郷磯崎に帰り、上須戒村(現大洲市)の西イワと結婚して、同所で開業する。天保4年、宇和島藩主伊達宗紀に登用され、卯之町で開業する。以後20余年間の卯之町での、彼の業績を整理すると次のようになる。一つには、甥の三瀬周三外の人々を教え、シーボルトの娘イネを養育した教育者であったこと。二つには、大念寺(現光教寺)山に種々の薬草を栽培し、外の医家にも分け与える本草家であったこと。また、本業の医療では、患者の貧富を問わず深夜でも往診し、最新の技術であった種痘にも従事する熱心な医者であったことである。

 

さらに、嘉永元年、高野長英が幕府の目を逃れて宇和島藩に、嘉永6年には、大村益次郎が来藩するのも、敬作の交友や名声が少なからず影響を与えていたと思われる。

 

イネの件だが、シーボルトが日本を去る際に、2歳8ケ月の娘楠本イネ愛称は「おらんだおイネ」。戸籍の名は「イ子」。「楠本」は母・楠本瀧の姓。瀧は出島に出入りしていた遊女・其扇〈そのぎ〉。シーボルトは、彼女を「おたくさん」と呼んで寵愛したの養育を託されていた敬作は、天保11(1840)年には、14歳のイネを長崎から宇和町に呼び寄せ、オランダ語・西洋医学を教え、女医としての能力を授けた。日本最初の女医の誕生である。

 

敬作は、イネに産科を学ばせるため、19歳のとき備前(岡山)で産科を開業していたシーボルト時代の同門石井宗賢〈そうけん〉のもとに派遣した。イネは産科学を学んで長崎に帰り、宗賢との子「たか(高子)」も出産した。宗賢との件を激怒した敬作は、安政元(1854)年、宇和島藩の軍艦建造調査団とともに長崎を再訪イネを再び宇和町に招き、開業させた。

 

この間、宇和島藩の彼に対する処遇を見ると、弘化2年、医業出精のため帯刀を許し、安政2年御徒士格、準藩医に列せられ、嘉永4年の分限帳では、御合力米5俵と長男逸二にも修業扶持一人分が与えられている。安政3年、シーボルトが再来日するとの報に接し、再び三瀬周三等と共に長崎に赴き、銅座町のイネ宅で開業する。安政5(1858)年の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消されたシーボルトは、翌年30年ぶりに再来日(渡来)、敬作の計らいで、滝、イネ親子と感激の対面を果す。また、娘イネに西洋医学を教えた。

 

敬作はこのとき、既に脳溢血で右半身が不自由であったにも拘らず、難手術を成功させている。文久2年3月12日、長崎で死去。享年57歳。遺骸を長崎皓台寺に、遺髪を卯之町光教寺に葬る。大正13年、正五位を追贈された。

 

平成3年(1991)年3月、八幡浜市保内町磯崎(いさき)の国道沿線の生家跡を望む近くの高台に「二宮敬作記念公園」が完成し、銅像が建てられた。平成4(1992)年11月13日は、二宮敬作生誕200年祭が、保内町や宇和町で行われた。

 

イネは、宇和島時代に長州(現山口県)を逃れて滞在していて長州藩の医者の村田蔵六(後の大村益次郎。明治政府の兵部大輔として近代兵制確立した)から蘭語を学び、彼が襲撃された後、治療、その最期を看取った。

 

敬作は情に厚く、貧しい人にも献身的な活動で地元民から「医聖」として慕われた。敬作の生まれた八幡浜市保内町磯崎(いさき)には、国道沿線に「二宮敬作記念公園」がつくられている。敬作の甥でその門人であった三瀬周三は、イネの娘・楠本高子の婿にあたる。

 

 

(参考・愛媛県生涯学習センター資料、「たむたむ」など)

 

 

敬作の銅像
イネ

大宮 庫吉 ・ 郷土の先人 34

大宮 庫吉 (おおみや くらきち)


明治19年~昭和47年(18861972) 明治19年4月1日北宇和郡竪新町(現宇和島市)で出生、父井上卯平、母マチの三男。4歳の時父死去、5歳にして母を失い、丸穂村の大宮家の養子となる。養父新吉、養母セキ。

 

15歳で高等小学校卒業、16歳で村役場の書記に奉職。17歳の3月に、藩の継志館塾を修了。23歳で、日本酒精㈱に入社。翌年同社製造技術部に入り、25歳(明治43年)の時初めて「新式焼酎」の製造に成功した。27歳で結婚、28歳のとき工場長に就任。大正5年4月(31歳)招かれて四方合名会社に入社し、新式焼酎の製造を開始。大正14年、40歳のとき創立20年を機会に社名組織を変更し「宝酒造㈱」となり、庫吉は営業部長常務取締役に就任。

 

全国新式味淋焼酎の連盟理事などとなり、同類の会社を次々と買収合併した。即ち松竹梅酒造㈱を傍系会社として経営し、日本酒造㈱を買収、次いで赤穂酒造㈱・岡村酒造㈱・大黒葡萄酒㈱・日本酒精㈱などを傘下におさめた。戦時中は大陸にも進出し、昭和201260歳で宝酒造㈱取締役社長に就任した。

 

昭和32年タカラビールを始めたが失敗し、昭和42年に京都工場はキリンビールに、木崎工場はサッポロビールに譲渡した。昭和46年1月脳血栓発病、翌47年1月21日死去、享年86歳。宝酒造㈱による社葬が執り行われた。日頃から郷土宇和島の発展を祈願し、2500万円の巨費を寄付し、これが基となって市公会堂が建設され、社会福祉並びに市民の文化及び教養娯楽施設として大きく貢献した。また和霊公園噴水施設費として多額の寄付をおこない、市民に憩いと安らぎの場を与えた。 彼が生涯、郷里宇和島に対して様々な配慮を残したのは、そこが単なる出身地であるだけではなく、その後の彼を育てた場所として彼の心の中に占める大きな存在であったのだろうと推測される。

 

大宮の経営者としての手腕は、周知の事実だが、単なる経営者でないことはその腕を買われて四方に招聘されたことでも判る。しかも焼酎の技術だけではなく酒全般に対する知識は幅広いものがあった。昭和24年4月には、ダイヤモンド社から、ダイヤモンド選書「酒類」という400頁を越える学術的な専門書を出している。

 

 

84歳の時(昭和4411月)、宇和島市初の「名誉市民」の称号を受けた。昭和3611月には、和霊神社境内に寿像が建立され、池田勇人が揮毫している。彼は一流の政治家・事業家との交際が多く、三笠宮御夫妻が彼の私邸に来ておられる。「大宮浩堂翁を偲ぶ」の追悼録には、愛知揆一・大平正芳・塩見俊二・塩崎潤・福田赳夫・星野直樹・前尾繁三郎・山際正道その他の名士が執筆している。

彼の性格業績については追悼録に詳しい。「彼は学歴も門閥もなく、文字通りの自成の人、自らの人格と才幹は自力で開発錬磨された人」と大平正芳は評している。「彼が思い切ってビールから手を引いたのは、ダンケルク撤退のチャーチル式だ」と塩崎潤は評している。昭和28年に大阪の稲畑太郎から譲り受けた、南禅寺山の名園「何有荘」で晩年を過した。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料、宇和島市誌など)

大宮庫吉の銅像

村上 天心 ・ 郷土の先人 33

村上 天心 (むらかみ てんしん)


明治10年~昭和28年(18771953) 画人。明治10年2月12日、宇和島須賀通(現宇和島市御幸町)の豆腐屋の生まれ。本名は孝吉、天心と号す。

 

彼の非凡な才能を見抜いた母親は、可能な限りの学問的機会をとらえ、書画、彫刻、漢学、仏学の師に学ばせた。彼も天性の資質を如何なく発揮した。小学校は「行っても学ぶ事がない」と、ほとんど行かなかった。

 

青年期は各地を遊学し、絵画、彫刻、建築など、芸術、文学全般にわたり探求し、その道を究めた。24歳の時『小楠公奮戦の図』を「帝展」に出品し、新聞に掲載されるなどして世間の注目を集めた。

 

一切の虚飾を捨て、各分野で卓抜な才能を発揮した。師を求めず独自の画境を歩み、奇行に満ちた生涯を送る。宇和島、大阪、明浜、大分などに居住を変え、晩年は大分県杵築市安住寺で過した。

 

昭和28102276歳で没す。その遺作は宇和島中心に南予方面に多く、同市西江寺の「閻魔大王画像」はよく知られている。また晩年の作は安住寺を中心に杵築地方に多く集中し、地域の人々に親しまれ、近年その再評価の声が高まっている。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)

村上天心
天井龍図
虎渓三笑図

前原 巧山 ・ 郷土の先人 32

前原 巧山 (まえはら こうざん)


文化9年~明治25年(18121892) 宇和島藩で最初の蒸気船を建造した技術者。幼名嘉蔵のち喜市、巧山と号した。

 

文化9年9月4日、八幡浜浦新築地(現八幡浜市)で生まれた。9歳の時、手習いに通う。 12歳より船商売をしていた父を手伝い、船に乗り始めた。 16歳で父を失い、その後他家へ奉公に出たり、船商売・雑穀商・目貫師・刻煙草の商売をしたりした。住所も転々としている。

 

天保9年、再度宇和島城下に出て、かんざし細工を始め、以後ちょうちんの張替や漆細工、彫刻や雛段などの製作も引受ける生活か続いた。この前半生、母の家出、難船、彼自身の離婚、家族の大病や死亡など、恵まれない不安定な日々が続いた。

 

安政元年、42歳の時に転機が訪れる。丁頭・清家市郎左衛門から、藩が火輪船の工夫のできる人物を探しているのでやってみないかと言われたことである。動力は人力であるが、船体に四つの車輪をつけ、それが芯棒の1回転で3回転する模型作りに成功し藩主宗城の目に止まったのである。さっそく実船にとりつけて実験が行われ、この年3月、巧山は2人扶持5俵を給されて御船方に登用された。

 

同年、3回長崎に赴く。幸運を得てオランダ船の蒸気機関と、その船体への取り付け作業を見ることができた。それだけの経験による作図と日本人による不完全な説明をもとに、安政2年模型を作り、翌年から本格的建造を開始した。しかし完成した汽罐は蒸気圧に耐えず失敗し、彼は町人出身の「おつぶし方」と陰口をたたかれた。

 

同4年、蒸気船の先進藩である薩摩に赴き技術を伝習し、その成果をもとに同5年汽罐製作に成功した。安政6年2月蒸気船の試運転に成功。彼は褒賞として3人分9俵を支給され、苗字を許されて譜代に列せられた。この蒸気船が、薩摩藩に次ぐ日本第2の国産蒸気船である。しかし汽罐が小さく、燃料は松薪で蒸気にむらがあり、スピードは三挺櫓の船に及ばなかったという。

 

 明治2年、再度の建造にとりかかり、翌年船長九間、幅一丈のより強力な蒸気船作りに成功、大阪往復の航海を達成した。船名は九曜丸、4~5ノットで航海したという。


  また彼は、ゲペール銃を模した小銃・織機の模型・縫製機械の作成などを行うとともに、合金の分離を試みるなど、極めて幅広い科学技術の才能に恵まれていた。しかし、明治4年の廃藩置県で活動の場を失い、以後大きな事績もなく明治25年9月18日、宇和島で没す。享年80歳、西江寺(現宇和島市)に葬られた。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)

今西 林三郎 ・ 郷土の先人 31

今西 林三郎 (いまにし りんざぶろう)


嘉永5年~大正13年(18521924)実業家・衆議院議員。大阪商船設立に尽力し、阪神電鉄を創設して専務取締役、後に大阪商工会議所会頭になった。

 

嘉永5年2月5日,宇和郡国遠村(現北宇和郡鬼北町)の庄屋の家に12人兄妹の五男として生まれた。衆議院議員今西幹一郎は、兄に当たる。幼くして父母を失い家計が苦しくなったので,親戚の吉田町の酒屋に養子にやられていたが、明治13年1月青雲の志を抱いて大阪へ出奔。やがて上京して、昼間は働き夜間三菱商業学校で学んだ。一時、三菱会社員となったが再び大阪に戻り、資金を借りて回漕店を開業した。

 

明治15年、回漕業者を集めて大阪同盟汽船取扱会社を興し、17年には船主と協力して大阪商船会社設立に尽力し、同社の回漕部長になった。 22年石炭問屋及び綿糸貿易業を始め、関西有数の商人に成長した。このころから諸種の事業に関係、大阪興業銀行創立に参加した後,31年阪神電鉄を設立して社長空席のまま専務取締役に就任して同社の基礎を固めた。

 

また政界進出の志を持って兄幹一郎の地盤を受け継ぎ、明治31年3月と同年8月の衆議院議員選挙に第6区から自由党公認で出馬したが、いずれも進歩党推薦の児島惟謙に敗れ落選した。大正4年3月、第12回衆議院議員選挙に立憲同志会から推されて当選したが、次の6年4月の選挙では再び落選して、以後国会議員を望むことはなかった。

 

  大正10年大阪商工会議所会頭に就任,文字通り大阪実業界の代表者になった。大正13年8月2772歳で没した。

  (参考・愛媛県生涯学習センター資料)

浜田 祐太郎 ・ 郷土の先人 30

浜田 祐太郎 (はまだ ゆうたろう)


明治10年~昭和13年(18771938)漁業功労者。宇和海において、まき網漁業を動力化した先覚者。

 

明治10年7月24日、父岩崎祐蔵、母フシの長男として、宇和郡内海浦大字内海の内申浦(現愛南町御荘中浦)に生まれる。明治35年4月12日、浜田清太郎の次女ツ子と婿養子の婚姻を結ぶ。祐太郎が婿養子となった頃は、御荘湾の菊川沖や内海湾が主漁場のいわし網を営んでいたが、大正3年38歳のとき朝鮮巨済島に渡り、いわしバッチ網(船びき網の一種)を経営していた。しかし、大正5年に事業が振るわず帰国した。その頃、地元では次々といわし揚繰網が始められ、同10年にはこの揚繰網の集魚燈としてカーバイトが使われ、夜間操業も行われるようになった。

 

大正12年祐太郎は、今後いわし網漁業は漁場が岸近くの地びき網、船びき網から漸次沖合に移動して行くことを察知した。遠い沖合漁場までの往復に要する時間の削減を図らなければ、いわし網漁業の経営は成り立たないと思った。ここで新しい試みとして、船団を動力船でえい航することとし、通い船として宇和島と九島の間に就航していた古発動機船を購入し,いわし揚繰船団の一切をえい航する方法を採用した。この結果、操業時間の効率化が進み,われ先にとこのやり方が行われることとなり,宇和海における揚繰網漁業は大きく前進した。

 

昭和9年3月、宿毛湾入漁問題に関し、32統の東西外海村いわし揚繰網の入漁が許可となったにも拘わらず、内海村は入漁できないこととなっていた。宿毛湾入漁の実現と経済上の利益を増大するため、網主組合の組織化が不可欠と考え村内網主を中浦に招集した。協議した結果、内海村の沖取網(小型のまき網の一種)、揚繰網、巾着網主組合を結成し、その組合長に就任した。奔走した結果、ついに昭和1211月、年来の宿望をある程度達成し、10統の内海からの宿毛湾入漁が可能となった。祐太郎の献身的な努力の賜物と言える。

 

昭和13年3月29日中浦にて没、60歳。次男の憲三が家業を継ぎ、現在の大浜グループをつくりあげた。全国屈指のまき網会社に発展している。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)

今西 幹一郎 ・ 郷土の先人 29

今西 幹一郎 (いまにし かんいちろう)


弘化3年~昭和2年(18461927)好藤村長・県会議員・衆議院議員・実業家で、宇和島鉄道・宇和水力電気を創設した。

 

弘化3年8月6日、宇和郡国遠村(現北宇和郡鬼北町)の庄屋今西権四郎の長男に生まれた。実業家今西林三郎は弟である。幼くして父を失い、万延元年14歳で家督相続して庄屋役を継ぎ、明治元年私費で国遠に溜池を掘り、溝を通し灌漑の便を図った。明治17年5月県会議員になったが、21年3月退職した。その後、宇和島の山崎惣六ら大同派に説得されて、22年1月再び県会議員になり25年3月まで務めた。

 

明治29年3月には、末広重恭死去に伴う衆議院議員補欠選挙で自由党から担がれて当選した。だが、政治活動を好まず、31年3月の衆院選挙には自らは出馬せず、代りに弟林三郎を推した。39年、村民に望まれて好藤村村長に就任、43年まで在職して、里道改修や小学校建築を行った。また、「貧民救助基金蓄積条例」を定めて孤独の貧者の救助、貧民子弟の義務教育費の補助を行うなどに尽力した。26年ころから鬼北地方開発のため鉄道敷設を計画して郡会を動かしたが、日清・日露戦争などで起工するに至らなかった。

 

  明治43年宇和島鉄道の再興を企て、創立委員長として多くの障壁を乗り越え、大正3年10月宇和島一近永間17.4kmの鉄道を開通させた。また、明治40年以来水力電気会社創立を主唱して渡辺修らと図り、43年1月に宇和水力電気会社設立と共に取締役に就任した。昭和2年11月4日81歳で没した。死の直前,郷里の人々は功績をたたえて広見町深田の大本神社に胸像を立てた。太平洋戦争中金属回収で供出されたが、昭和57年4月広見町総合開発センター前庭に再建された。

  (参考・愛媛県生涯学習センター資料)

安藤 継明・郷土の先人 28

安藤 継明 (あんどう つぐあき)


延享4年~寛政5年(17471793)吉田藩紙騒動で切腹し、神として祀られた同藩の家老。通称儀太夫。

 

宇和島藩主・伊達村侯の御声がかりで家老となったと言われる。和漢の学に通じ、槍術をよくし、事務の才にも恵まれた。彼の仕えた伊達村賢・村芳の時代、藩財政は窮迫し、農民の疲弊も極限にきていた。天明7年には土居式部騒動が起こり収奪はやまず、寛政4年には紙方の仕法が改められ、専売制が強化された。安藤は納税法の改革等を主張したが容れられなかったと言う。

 

こうして寛政5年の、吉田藩紙騒動がおこる。この騒動の特徴は規模や結果にも見られるが、闘争手段として宗家宇和島藩に逃散と言う形をとり、同藩を調停役に引き出した点である。安藤は、一揆勢が吉田領内宮野下村(現宇和島市三間町)に集結した時、年貢以外の話合いには応じ、藩の危機を回避しようとしたが失敗。その後一揆勢は、宇和島領内中間村八幡河原(現宇和島市)に移動し、吉田藩との交渉を拒否、要求事項も提出しない態度に出た。

 

安藤は八幡河原に赴き再度の交渉をするが、一揆勢の態度を変えることはできず、全責任をとって同所で切腹した。以後、事態は収拾に動く。寛政5年2月14日は、安藤の誕生日であり享年46歳であった。海蔵寺(現北宇和郡吉田町)に葬られる。法号大節院殿顕翁道危居士。

 

死後61年目の命日、嘉永6年2月14日、海蔵寺山上の中天に神光があらわれ、安藤の霊験であるとされ各地から参詣者が来るようになった。明治6年安藤邸跡に継明神社(現安藤神社,北宇和郡吉田町)が建立され、現在に至っている。

(参考・愛媛県生涯学習センター資料)

安藤神社
安藤神社
安藤神社の大イチョウ

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