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近畿同窓会 会歌
宇東高近畿同窓会 会 歌
山 よ 海 よ 川 よ
作詞 谷 口 利 広
作曲 松 影 通 男
一 夢や 希望(きぼう)を 胸に秘め
うるわし南予後(あと)にした
努め励みて 幾年月ぞ
巡る思いは あの故郷の
父よ母よ 兄弟姉妹
二 山よ 海よ あの川よ
いつもやさしく 微笑みて
時は移りて 流行もあれど
心忘れず ただ誠実に
母なる東高(ひがし)に 思いを馳せる
三 尊(とうと)き 教え 何時(いつ)の日も
忘ることなく この胸に
次代を担う 後輩たちも
飽きること無く 努めよ励め
我も弛まず 力を尽くす
宇東高近畿同窓会 会歌「山よ 海よ 川よ」の制作経緯
平成24年 9月29日
幹事会で「会歌」の制作が決定、 作詞を幹事の谷口に依頼
平成24年10月29日 谷口、制作開始
平成24年11月 9日 幹事会で、「山よ 海よ 川よ」の案を提示
平成24年12月22日 幹事会で、「山よ 海よ川よ」を「会歌」として承認
平成25年 1月30日 谷口、安丸三一氏作曲の「望郷」に出会う
平成25年 1月31日 「望郷」の曲の長さに合わせ、詞を修正(「不易忘れず誠実に」) 曲の使用を安丸三一氏、快諾
平成25年 2月 1日 安丸三一氏から、氏歌唱の「不易忘れず誠実に」が届く
平成25年 2月 2日 安丸三一氏からの楽譜とカラオケ曲が届く
平成25年 2月 8日 幹事会で「不易忘れず誠実に」を披露
平成25年 2月12日 幹事の一川、帰省 松影通男先生に作曲依頼、先生に快諾していただく
平成25年 2月13日 松影先生、作曲開始
平成25年 2月24日 会歌「山よ 海よ 川よ」完成
平成25年 2月26日 松影先生から、CD届く
平成25年 3月 9日 幹事会で報告 終了後の懇親会を会歌発表会とした
平成25年 3月28日 谷口帰省し、松影先生に謝礼の挨拶
平成25年 4月26日 幹事長、平野副幹事長ら帰省し、松影先生に謝礼の挨拶
平成25年 5月19日 総会において、松影先生ご夫妻ご臨席のもと、会歌「山よ 海よ 川よ」を披露
懇親会において、会歌「不易忘れず誠実に」を披露
会歌 制作秘話
宇東高近畿同窓会 会歌「山よ 海よ 川よ」
制作秘話
平成24年9月29日の幹事会で、「会歌」を作ることが決まり、提案した私に作詞の大仕事が回ってきた。光栄に思うと同時に事の重大さを、責任の重さを強く感じ、全身に気合いが漲ったものだ。早速、翌日から取りかかり3~4日で大筋を仕上げた。日ごろ思っていること、感じていることを言葉にした。毎晩のように推敲を重ねた。そういった営みが、1ヶ月も続いた。完成にはまだ一歩だったが、その詞を11月9日の幹事会の席で披露した。みなさんの反応は、概ね好評であった。その際、幹事の平野弘通氏から「50年、100年と歌い継がれるものにしたいね」との、叱咤とも激励とも受け取れる言葉をいただいた。また、今井啓介副会長からは、「山よ 海よ あの川よ……の歌詞は胸に迫るものがある」と。ありがたく感じ入ると共に、責任の重さを改めて痛感し、身の引き締まる思いであった。その他にもいくつかご意見をいただいたので、それらを参考にすぐに若干の手直しをした。
12月22日の幹事会で再度お示しすると、「これでいいじゃないか」ということになり、作曲はどなたにお願いするかが話題になった。私には、手がけたときから、「東高讃歌」を作曲された母校の恩師・松影通男先生(宇東1期)にお願いできればこの上ない、先生以外考えられないとの思いが強く、みなさんにお話しするとそのとおりに決まった。ただ誰がどのような形で依頼するかということがうやむやになり、正月をはさみ、1ヶ月以上が経過してしまった。理由のひとつには、「ずーむいん鬼ヶ城 」の編集作業等が重なったこともある。そのような中、平成25年1月30日にインターネット上で、「神戸の演歌親父」こと安丸三一氏と出会った。安丸氏は、若い頃、春日八郎の「山の吊り橋」などを作曲した吉田矢健治氏に師事され、プロ歌手をめざしておられた。ネットで公開されている安丸氏作曲・歌唱の「望郷」(作詞は佐藤二三男)が私の心を揺さぶった。すぐに、出来上がっていた詞を「望郷」の曲の長さに合わせて、少し手を加えた。曲に合わせて唄ってみると、なかなかいい感じであった。安丸氏のホームページでは、「著作権関係無しに自由に使って貰って結構」とあったので、すぐに連絡をとった。氏に使用を快諾していただき、以後、トントン拍子に話が進み、2月1日には安丸氏歌唱による曲が電子データで届いた。翌日には、カラオケと楽譜も。安丸氏の献身的スピード対応には、頭が下がった。これを2月8日の幹事会で披露すると大好評で、みなさん感動の渦に巻き込まれた。「ものすごい反響」という形容があるが、まさにそれであった。「望郷」「郷愁」といった故郷を想う感情を共有するからであろう。
そういった光景を目の当たりにし、携わった者として何とも言えぬ幸せな気分に浸れたことは言うまでもない。この曲の題名は、「不易忘れず誠実に」(ふえきわすれずまっすぐに)とした。当日出席の役員には、歌唱入りの曲を書き込んだCDをお渡しした。この望郷演歌もよかったが、私には松影先生に、ぜひとも作曲していただきたいとの思いが強かった。松影先生作曲の格調高いものと、この「望郷演歌」との二本立てになるならば最高だろうと思った。2月8日の幹事会の席で、一川幸男氏が翌朝から宇和島へ帰省されることを聞き、この機会に便乗して松影先生に依頼しようと思った。その夜は、二次会で帰宅が午前様になってしまったが、眠たい目をこすりながらすぐに会長名の依頼文を作り、それを一川氏にEメールで託した。時刻は夜中の2時を回っていた。
2月12日の夜に、帰省中の一川氏から松影先生に要請を受けていただいたという電話を貰った。翌朝、松影先生に電話を差し上げた。40数年前と変わらぬ矍鑠としたお元気そうな声で、お話になられた。格調高い詞だと褒めていただいた。私が「東高讃歌」をくちずさむと、「覚えているのか」と電話の向こうで先生が喜ばれたように感じられた。先生からは唄いづらい数カ所のご指摘があり、電話で何度かやりとりしながら手直しをした。「自分の最後の仕事だと思ってしっかりやりたい」とおっしゃっていただいた。お人柄の滲み出るような、一言、一言であった。
2月26日、同窓会冊子の編集会議があり、役員7名が集まった。松影先生にご依頼した旨を報告すると、みなさん大喜びであった。その夜、帰宅すると、松影先生からの郵便が届いていた。中には、カセットテープと楽譜が。すぐにプレイヤーを回すと、格調高い曲が流れてきた。宇和島在住のピアニストや声楽家を動員した、立派な作品に仕上がっていた。3~4回続けて聴くうちに、涙がこぼれ落ちた。傍にいた妻も、もらい泣きしていた。
添えられていた手紙によると、歌唱は宇和島在住の声楽家であると。また、ピアノ演奏は教え子、ピアノ譜を作成したのは埼玉在住のご令嬢だとも。演奏に係るお二人は、宇東の卒業生であった。先生には、短期間に精力的に作業していただいたのだ。まことにありがたいことである。さらに、「会歌の作曲を依頼され、格調高い詞に接し、傘寿を超えて余生を楽しんでいた私にとりましては、久々に身の引き締まる思いが致しました。若い頃から、小・中・高の校歌、讃歌、応援歌、協会歌、団歌、歌曲などを作曲して参りましたが、恐らく私の人生最後の作曲になるだろう『山よ 海よ 川よ』に、全力を傾注し、至福の時をすごすことができました。(中略)この歌が永く歌い継がれてゆくことを期待しています。近畿同窓会の益々のご発展と皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます」と。
私の拙い詞に、このような高いレベルの曲をつけていただき、どこででも誇れる格調高い会歌に仕上がった。私たちの要望を真摯に受け止め、速やかに、かつ着実に対応された松影先生のその姿勢に、ただただ敬服するばかりである。
3月9日の役員会において、『山よ 海よ 川よ』を披露した。みなさんの感動ぶりは筆舌に尽くせない。数多くの方が、涙を禁じ得なかった。2曲が完成したが、もちろん、松影先生作曲の『山よ 海よ 川よ』がメインである。5月の総会には松影先生ご夫妻をお招きし、『山よ 海よ 川よ』の発表披露を行った。大いに盛り上がった事は言うまでもない。今回の会歌制作の取り組みは、同窓生の母校への、故郷への共通の思いが凝縮されたものであり、そのことが成せる業だと思う。この会歌が100年、200年と、歌い継がれることを確信する。会歌を作ろうと提案してから完成まで半年足らずであったが、今回のことを通して同窓の絆が、大きく深まった。この会歌を歌い継いでいく中で、さらに深めていきたいものである。(谷口利広記)
会歌の揮毫
会歌の揮毫
会歌「山よ 海よ 川よ」を、左 青石(佐藤洋明)氏に揮毫していただいた。左氏は元々右利きであり、小坂奇石門下の俊才として一家を成しておられた。だが、病で右手が不自由になられた。50歳半ばの事である。その後、左手で書く事を一から始められた。現在70歳半ばであるが、左利きの書家として、国内屈指の方である。
氏は、論語塾「南河内照隅会」(みなみかわち しょうぐうかい)における先輩で、教員としても大先輩である。昨夏出版した伝記時代小説「攘夷などと無謀なことを」の題字も、揮毫していただいた。「あぁ、あれか」と思い起こしていただける事だろう。
私の座右の銘である「飽くこと無く 可能性を求めて」も、私の退職記念に揮毫賜った。(谷口利広)