郷土の先人 ➄
和田 清治 ・ 郷土の先人 213
和田 清治 (わだ せいじ)
明治18年~昭和24年(1885~1949) 県会議員
明治18年11月14日、宇和郡津布里村(現西予市三瓶町)で和田清治の三男に生まれた。宇和島中学校卒業後、40年に酒造業を継ぎ、梅太郎を清治と改名した。村会・町会・郡会議員を経て、大正12年9月、県会議員に選ばれ、同14年2月まで在職、さらに昭和2年9月~6年4月再度県会に列し、政友会に所属した。
県会議員在任中、県道三瓶一宇和線の道路建設に尽力して完成に導き、人々はこの道路を和田道路と呼んだ。昭和24年6月18日、63歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
矢野 小十郎 ・ 郷土の先人 212
矢野 小十郎 (やの こじゅうろう)
安政5年~昭和3年(1858~1928) 実業家、第二十九国立銀行創立者の一人
安政5年10月19日、宇和郡伊方浦(現西宇和郡伊方町)で大浜吉右衛門の長男に生まれた。その後、川之石に移住し,製蝋業のほか酒造業を営み、明治の初めには綿替え業を始めて財をなした。
明治8年、川之石浦で銀行類似会社「潤業会社」を設立した。同11年1月、宇和島旧藩主の勧めで川之石浦に県下で最初の銀行第二十九銀行設立の議が起こると、これに参与して創立当初の取締役に就任した。昭和3年8月30日、69歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
森田 栄 ・ 郷土の先人 211
森田 栄 (もりた さかえ)
明治10年~昭和19年(1877~1944)ハワイ移住者にして著述家、土居村の村長
明治10年6月12日に、栄治郎の長男として東宇和郡土居村(現西予市城川町土居)に生まれる。明治29年村書記を務め、同32年10月4日露国船ダルニストック号にて渡哇。明治35年、ワイパフにて写真館を開業。支店の開設、弟子の養成に努めた。著作活動にも熱心で、その著書『ハワイ日本人発展史』(大正5年)、『ハワイ五十年史』(同8年)は天覧の栄に浴した。
また、社会事業等にも尽力。明治36年、日本人会創設に、同44年ワイパフ曹洞宗教場創設に努めた。大正9・10・15年の3回日本観光訪問団を組織、初めて皇居を拝観した。大正12年大震災救恤義損金募集ワイパフ委員長、同13年より昭和2年まで総領事館事務嘱託として請願届代書取次人を務めた。昭和2年郷党の勧めにより帰国、同6年より14年までの8年間村長を務め、郷里の発展に寄与した。昭和19年9月17日、67歳で死去した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
二神 深蔵 ・ 郷土の先人 210
二神 深蔵 (ふたがみ しんぞう)
弘化2年~大正9年(1845~1920) 初代城辺村長・県会議員・副議長
弘化2年6月3日、宇和郡城辺村(現南宇和郡愛南町城辺)の庄屋二神家に生まれた。幼名道太郎、後に作馬ついで深蔵。小沢種春について経史を学び、宇和島藩の指南役巽為風について剣法を習った。慶応元年の長州征伐の際には、民兵を率いて従軍した。明洽初年、藩商佐々木隼人らと国産会社を創設したが失敗、それ以来専ら地方政治に生きることにした。
地租改正の郡総代人、次いで南宇和郡役所の郡吏となったが、明治20年頃には宇和島の山崎惣六らと民権運動に従事して、土佐の林有造らと気脈を通じた。明治23年町村制実施に伴い城辺村の初代村長になり、3期連続して在任した。180町歩の山林所有権の獲得・河川改修,大社教会所の建設など、村民のために尽した。明治27年3月初めて県会議員になったが、同29年4月には副議長に選ばれ、30年11月までその地位にあった。漢籍に通じ、和歌俳句をたしなみ淡水と号した。大正9年9月6日、75歳で没した。代議士二神駿吉は次男である。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
兵頭 昌隆 ・ 郷土の先人 209
兵頭 昌隆 (ひょうどう まさたか)
嘉永5年~明治44年(1852~1911) 初代川之石村長・県会議員・衆議院議員 宇和紡績会社創業者。
嘉永5年2月30日、宇和島藩士竹村佐平の長男に生まれた。宇和郡川之石浦(現西宇和郡保内町)の郷士田中孫右衛門の養子に入り、後に資産家兵頭吉蔵の娘婿となった。明治18年3月、川之石浦戸長、同23年川之石村初代村長に選ばれて村政に尽した。傍ら、明治19年3月県会議員になり、同23年10月病気で辞任するまで在職した。党派は改進党に所属していたが、後に自由党に変わり、明治27年9月の第4回衆議院議員選挙には同党から推されて第5区から立ち,清水隆徳を破って当選した。明治31年の第5回衆議院議員選挙では、清水静十郎に敗れて落選した。
この間、川之石出身の実業家矢野貞興の勧めで、明治20年12月養父吉蔵と共に四国初の紡績会社「宇和紡績」を創業して、紡績業界の先覚者となった。晩年は東京に出て商業を営んだ。明治44年3月13日,、59歳で没した。昭和39年4月、川之石橋の東たもとに「兵頭昌隆翁顕彰碑」が建立された。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
樋口 虎若 ・ 郷土の先人 208
樋口 虎若 (ひぐち とらわか)
明治5年~昭和33年(1872~1958) 医師、宇和島市長
明治5年11月10日、宇和郡吉田東小路(現宇和島市吉田町)で樋口直康の長男に生まれた。明治27年第三高等学校を卒業して医師業免状を受け、同28年陸軍軍医となり、同33年2月宇和島広小路に豪壮な医院を建て、開業した。明治37年2月、陸軍軍医大尉に昇進、県医師会理事を経て大正9年副会長に推された。
大正3年以来、宇和島町会・市会議員・北宇和郡会議員になり、昭和13年7月宇和島市長に就任したが、同14年5月政党の対立抗争を嫌って退任した。昭和33年6月4日、85歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
牧野 純蔵 ・ 郷土の先人 207
牧野 純蔵 (まきの じゅんぞう)
天保7年~明治36年(1836~1903) 県会議員・衆議院議員
天保7年1月18日、宇和郡岩木村(現西予市宇和町)に生まれた。幕末・維新期に庄屋・里正・戸長・副区長などを務め人望があった。明治13年11月、清水静十郎の補欠で県会議員に当選して以来、19年3月まで在職。明治22年1月、再び県議になり同23年3月には副議長に選ばれた。明治23年7月の第1回衆議院議員選挙に第5区から当選、25年2月の衆議院議員選挙で再選された。大同派一自由党に属したが、沈着・保守的な人柄で政治運動はあまり関与せず、明治10年代宇和郡を揺るがした農民闘争無役地事件では、地主側を代表して農民と対決した。明治36年5月29日、67歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
晦 巌 ・ 郷土の先人 206
晦 巌 (まいがん)
寛政10年~明治5年(1798~1872) 宇和島の禅僧。諱は道廓、号は晦巌・万休。
宇和島藩士田中家に生まれる。文化4年10歳で宇和島選仏寺に入り、同12年筑前博多聖福寺の仙崖、次いで鎌倉円覚寺の誠拙(宇和郡八幡村出身)に参じて、禅道に精進した。後に、宇和島藩主伊達家菩提寺大隆寺の16世住職となり、伊達家宗紀・宗城両藩主の帰依をうけた。特に宗城の国事尽力に当たって、これを助け諸公卿・勤王諸侯の間を往来し、元治元年長州征伐の際には、防長に使し徳山侯に順逆を説いた。著書に、『楞厳経吐哉鈔』3巻などがある。墓は大隆寺にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
星名 謙一郎 ・ 郷土の先人 205
星名 謙一郎 (ほしな けんいちろう)
慶応2年~大正15年(1866~1926) 海外移住者、ハワイ・ブラジル等で活躍。
慶応2年10月10日、現宇和島市吉田町に幸旦の長男として生まれる。明治20年、東京英和学校(現青山学院)予備学部卒業。一時、上海に滞在。明治24年にはハワイに在住、キリスト教牧師の伝道助手、同27年には、「布畦新聞」の発行に従事したりしていた。明治34年、末光ヒサと結婚。同36年にはハワイを去り、米国テキサス州ヒューストンに渡った。
明治37年、同地方において愛媛県人大西理平、高知県人西原清東(同志社社長)等が大規模に経営していた米作に従事したが、失敗して一年で中止した。その後、ブラジルに渡り、大正4年にはサンパウロに在住、翌5年にはサンターナにおいて新聞「週間南米」を創刊した。2年ほどで廃刊したが、ブラジル最初の邦字新聞として大きな意義をもつものである。また、植民地創設にも努力し、同6年には、ソロカバナ沿線では最初のブレジョン植民地とバイベン(梅弁)植民地を創設した。ブレジョン植民地には、大正8年に50家族が入植、第一小学校が開校されるなど発展したが、同15年12月13日、60歳のときアルバレス・マッシャード駅頭において射殺された。波乱に満ちた移住先駆者としての生涯を終え、同地の墓に葬られた。遺髪は京都の等持院に納められた。長男の秦は、同志社学長を務めた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
別宮 周三郎 ・ 郷土の先人 204
別宮 周三郎 (べっく しゅうさぶろう)
嘉永7年~昭和11年(1854~1936) 初代遊子川村長・県会議員。
嘉永7年2月12日、宇和郡遊子谷村(現西予市城川町)の庄屋で酒屋を営む別宮重基の長男に生まれた。幼時岡田小草から漢学を学び、明治初年には戸長職につき、同23年町村制の施行で誕生した遊子川村の初代村長に就任した。明治26年3月村長を退職するまで、戸長時代を含めて22年間村づくりに尽力した。その間,地租改正事業や養蚕の普及奨励、小学校教育の進展を図った。
明治19年3月県会議員に選ばれ、同21年まで在職した。村長専念のため県会を離れたが、30年10月~32年9月と41年11月~44年9月県会議員に復活した。明治31年5月には、県森林会議員になって村の山野に植林を進め、同39年には郡農会副会長に推されて、養蚕を中心とする地域産業の振興と東宇和農蚕学校の設置に努めた。昭和11年10月12日、82歳で没したが、翌12年元小学校の校庭に頌徳碑が建立された。養子別宮良も県会議員を務めた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
古川 重春 ・ 郷土の先人 203
古川 重春 (ふるかわ しげはる)
明治15年~昭和38年(1882~1963) 建築学者
明治15年5月2日、宇和郡津布理村(現西宇和郡三瓶町)に生まれる。京都帝国大学の天沼俊一教室(古典建築)に学ぶ。大正2年、松山市の新栄座改築に際して、桃山様式で統一した設計図を作成した。満州の大連にあった関東都督府(のち関東庁)営繕課に勤務する。
昭和の初め、大阪市役所建築課天守閣設計主任となり、「大坂夏の陣図屏風」などを参考に大阪城の図面を作り、同6年天守閣を完成させた。戦後は帰郷して農業を営んでいたが、昭和29年から松山に出て伊予豆比古命神社拝殿などを設計する。また、昭和12年には、松下幸之助邸の設計もする。著書には、『錦城復興記』『日本城郭考』などがある。昭和38年6月11日死去、81歳。日本における古典建築研究の第一人者であった。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
二神 節蔵 ・ 郷土の先人 202
二神 節蔵 (ふたがみ せつぞう)
大正4年~昭和22年(1915~1947) 詩人
大正4年4月5日、父伝蔵の次男として南宇和郡城辺村矢野(現愛南町矢野)に生まれる。別名の藤田竹郎は、母の家の姓と竹郎は本名の「節」の字を二つにしたものである。父伝蔵は城辺町長を永年務め、曾祖父は国学者である。昭和3年に宇和島中学に入学し、同8年、明治専門学校応用化学科に入学するが、卒業直前に発病し療養生活に入る。昭和19年に、短歌雑誌を発刊するとともに版画に熱中し詩作も始める。同20年に詩集「ふたりの神さま」を出版し、次々と個性の強いすぐれた感性をもつ詩を発表する。昭和21年「芸術道場クラブ」を開き、青年文化会を立ち上げ文化活動に情熱を傾注し、郷土の後進の指導に尽す。
昭和22年3月5日、31歳で死去。法名は、春光院大覚和節居士。死後、『二神節蔵遺稿集』が出る。南郡文化振興のパイオニアとして知られる。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
太宰 游淵 ・郷土の先人 201
太宰 游淵 (だざい ゆうえん)
生年不詳~寛永15年(~1638) 北宇和郡成妙村(現宇和島市三間町)の生まれ。名は義祐、宇和郡の領主西園寺公廣の家臣であったが、天正年間に主家滅亡した。游淵は農業に戻り、成妙村に居住した。後に、宇和島藩伊達秀宗より仕官をすすめられたが、二君に仕えずとしてこれを固辞して、生涯、地方の開発、農事の改良に尽くした。
寛永年間頃より、この地方は用水に乏しく年々旱害を受けてきたが,游淵はこれを憂い、大用水池を造るべく八方奔走4か年の歳月を経て、ついに中山池を掘設した。游淵はこの池の竣工するにあたり、自ら人柱に立ったものと伝えられ、墓が池の畔りの小丘にある。寛永15年4月10日、死去。池畔に頌功碑が建てられている。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
玉井 卓一 ・ 郷土の先人 200
玉井 卓一 (たまい たくいち)
万延2年~大正13年(1861~1924) 愛治村長・県会議員
万延2年1月23日、宇和郡上畑地村(現宇和島市津島町)吉良宗馬の次男に生まれ、明治7年清水村(現広見町)玉井安蔵の養子になった。養父は、県会議員・衆議院議員を務めた。明治23年、愛治村(現広見町)会議員に当選、大正3年1月まで6期連続当選した。明治27年2月、愛治村長に選ばれたが、9月辞任した。
明治32年9月~44年9月県会議員に連続3期在職、最初愛媛進歩党に所属したが、後に政友会に変わった。大正元年9月~4年5月、再び愛治村長に就任して村政を担当、地方産業の振興、交通機関の整備、村有林の造成、区長の設定などを図った。特に、愛治村経由日古線道路改修の実現に尽力した功績は大きかった。大正13年11月14日、63歳で没した。昭和3年、愛治小学校下に記念碑が建てられた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
田中 秀央 ・ 郷土の先人 199
田中 秀央 (たなか しゅうおう)
明治19年~昭和49年(1886~1974) 学者
明治19年3月2日、北宇和郡三浦村大内(現宇和島市)にて出生。旧制第三高等学校を経て東京帝国大学文科大学言語学科卒業。大正9年京都帝国大学講師、助教授を経て昭和6年教授に就任した。昭和21年定年退官、同22年名誉教授となった。
昭和24年から京都女子大学文学部の教授として勤務、以来49年3月まで25年間、同大学で教鞭をとる。ラテン語の権威として『新羅甸文法』の名著が岩波書店から出ている。その他、『英語語源漫筆古典語篇』大学書林刊がある。左右の銘として「Festina Lente」ゆっくり急げがある。昭和49年8月6日、88歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
須藤 旦 ・ 郷土の先人 198
須藤 旦 (すどう はじめ)
文化14年~没年不詳(1817~) 幕末維新期宇和島藩の重臣・大参事
文化14年6月、宇和島で150石取りの藩士須藤家に生まれた。通称段右衛門・但馬。文化14年家督を相続し、文政6年児小姓、14年近習を経て弘化2年目付兼軍役兼帯を命じられ、嘉永6年のペリー来航以後江戸に出て活動、薩摩・長崎・筑前・福岡などに往来して諸藩への使者の役割を果たした。幕末維新の功労はきわめて大きい。同藩の志士、西園寺公成や得能亜斯登らと親交があった。明治2年10月、宇和島藩大参事になり維新期の藩政事務を担ったが、明治3年に退職、ほどなく没した。読物作家の須藤南翠は次男である。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
佐々木 饒 ・ 郷土の先人 197
佐々木 饒 (ささき ぎょう)
明治26年~昭和27年(1893~1952) 実業家、県会議員・副議長
明治26年9月11日、宇和島賀古町で生まれた。大阪高等工業学校卒業後、神戸電気製作所販売部主任、電気機械機具商中井商店の支配人となった。大正8年宇和島に帰り、電気事業に携わり宇和島工業所を起こして社長となった。太宰孫九と親交を結んで宇和島製氷冷凍会社を創立、その専務取締役に就任した。
大正14年以来、宇和島市会議員、昭和14年~15年には議長を務めた。昭和6年9月県会議員になり、22年4月まで在職した。民政党に所属して雄弁で鳴らし、昭和11年12月~12年12月には副議長を務めた。昭和27年9月27日、59歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
佐々木 高義 ・ 郷土の先人 196
佐々木 高義 (ささき たかよし)
嘉永7年~昭和元年(1854~1926) 丸穂村長・県会議員,実業家
嘉永7年4月9日、宇和郡丸穂村(現宇和島市)で生まれた。明治6年以来大阪で邏卒・小学校訓導を務め、帰郷して明治13年愛媛県官になった。同23年1月町村制施行とともに丸穂村助役、同31年1月同村長に就任。明治40年8月まで村政を担当して、宇和島市街との連携に努めた。明治43年3月、県会議員に選ばれ、愛媛進歩党に所属して、大正4年9月まで在職した。
明治36年、宇和島町に程野館(生糸工場)を設立、村長引退後はその経営に当たり、地元の銀行・会社の重役を兼ねた。大正10年には、宇和島市会議員になった。昭和元年12月28日、72歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
桑折 宗臣 ・ 郷土の先人 195
桑折 宗臣 (こおり むねしげ)
寛永11年~貞享3年(1634~1686) 藩家老・俳人・歌人
初代宇和島藩主伊達秀宗の四男として、寛永11年12月21日江戸で生まれる。母は侍妾山上氏駒。幼名、頼隆。次に宗恭・宗武・宗周・宗臣・通貞とし、宗臣に復した。通称、百助・左衛門、号は青松軒・藤栄軒・本水大居士など多数。7歳のとき、城代家老桑折宗頼の嗣となり、宇和島に移る。 19歳で桑折家第十六代として家老職を継ぐ。31歳頃、家督を弟頼邑に譲り、河内山青松軒に隠居(秀宗の五男宗純は吉田藩に分封)、風雅の道に専念した。
和歌は飛鳥井家に学び古今伝授を受げ、連歌は里村玄陳・玄俊父子に、俳諧は北村季吟に学んだ。弓は日置流師範近沢益友軒に、禅は長遠寺の開山南山和尚に印可を受けるなど、文武両道に秀でた第一流の人物であった。その作品として、和歌は『宗臣君御自詠』(寛文12年-1672)、俳句は『宗武自詠発句牒』で、玄陳・玄俊点もある。作法書『弊嚢集』(寛文4年)は、指合の難など、『知新抄』(延宝5年-1677)は古歌による付合、式目の類42冊をまとめたという。ともに序のみ判明。編著には「宇和島百人一句」(寛文初期?謄写)。撰句集『大海集』7冊は、寛文12年刊。伊予俳人が編纂した最初の発句集で、39国、832人、 5025句、宇和島156人で、宇和島俳句集の観さえあり、女子供の句もある。
7年後の延宝7年『詞林金玉集』19冊写本、97冊の俳書から5617人、 19519句を選出、66国に及ぶ貞門俳諧集の圧巻としで著名である。俳諧連歌百韻十巻の『郭公千句』は、寛文12年加幡正彌・千里心松・桑折頼邑ら12人で興行した自筆本。延宝8年(1680)46歳のときの, 『青松軒之巻』は歌や発句などその精髄をまとめた自筆本(3年後天和3年『青松軒之記』に改稿)。寛文4年、8年、延宝8~9年の『文宝日記』、その他著作類は多い。貞享3年3月3日没,、52歳。宇和島龍華山等覚寺に葬られる。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
上田 名洲 ・ 郷土の先人 194
上田 名洲 (うえだ めいしゅう)
嘉永6年~昭和13年(1853~1938) 画家
嘉永6年1月2日、宇和島に生まれる。本名富太郎。宇和島藩校明倫館で学ぶ。自由党の壮士として自由民権を唱え、政治に奔走したこともあった。明治34年、西宇和郡立八幡浜商業学校が創立されると、書道・漢文・絵画・歴史の教師として招かれ、栗野浦に居住した。以来28年間、教職にあり、特に書道教育に熱心であった。
南画は、野田青石に学び多くの作品を残している。昭和13年11月23日死去、85歳。墓地は宇和島市内大谷口にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊藤 大輔 ・ 郷土の先人 193
伊藤 大輔 (いとう だいすけ)
明治31年~昭和56年(1898~1981) 映画監督
明治31年10月13日、宇和島市元結掛に生まれる。松山で育ち、松山中学校を卒業。呉海軍工廠などに勤務。その間、小山内薫と文通をし、その師風に傾倒、上京して松竹キネマ研究所に入る。以来、50余年にわたり活躍。帝キネ・日活・第一映画・大映・東映などの各社で時代劇91本を監督した。大河内伝次郎と組んでの「長恨」(大正15年)と「忠次旅日記」三部作(昭和2年)は、娯楽に初めて人間描写をとり入れた時代劇の傑作といわれる。「下郎」での移動撮影の手法も、映画に新機軸を生んだ。「侍ニッポン」「丹下左膳」「新納鶴千代」「鞍馬天狗」「われ幻の魚を見たり」「王将」「反逆児」「幕末」などの代表作がある。昭和56年7月19日死去、82歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
宇都宮 利助 ・ 郷土の先人 192
宇都宮 利助 (うつのみや りすけ)
明治20年~昭和38年(1887~1963)県会議員・宇和町長
明治20年12月10日、宇和郡川津南村(現西予市城川町)で河野利三郎の次男に生まれた。同36年8月、上宇和村永長(現東宇和郡宇和町)宇都宮宇一郎の養子になった。酒造業を継ぎ、大正11年以来宇和町会議員を4期務め、昭和14年9月~22年4月県会議員に在職した。
昭和27年8月、宇和町長に就任、同29年3月の6か町村合併による新宇和町誕生に尽力した。昭和38年3月6日、75歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
太宰 孫九 ・ 郷土の先人 191
太宰 孫九 (だざい まごく)
明治12年~昭和17年(1879~1942) 宇和水電会社を中心に事業を拡大、後に伊予鉄道会社社長,県会議員・衆議院議員。
明治12年10月8日、北宇和郡大内村(現三間町)で旧庄屋太宰文治郎の長男に生まれた。大分尋常中学校(現上野ヶ丘高校)を経て、金沢の第四高等学校に入学したが、33年の父死去により退学して帰郷、家督を継いだ。明治39年、村会議員となり、同41年渡辺修・今西幹一郎らと宇和水力電気会社を設立して常務に就任した。明治43年12月から、二名村村長になって村政を担当する傍ら、大正4年宇和製氷会社・宇和島畜産会社,同5年宇和島製糸会社,同6年宇和島木材会社など次々と事業を拡大して取締役・社長に就任した。
大正6年7月県会議員になり12年9月まで在職して,10年12月には副議長に選ばれた。大正13年5月、第15回衆議院議員選挙第7区で政友本党から出馬して当選した。だが、代議士在職中宇和水電を伊予鉄道電気会社に合併して副社長に就任、宇和島製氷冷凍会社を設立して社長になり、穂積銀行の頭取に推されるなど実業面で多忙を極めたので、昭和3年2月の第16回衆議院議員選挙には立たなかった。昭和8年6月井上要引退の後を受けて、伊予鉄道電気会社社長に就任した。昭和17年3月電力統制法で同社の電気部を分離して運輸部門による新会社伊予鉄道会社を創立、初代社長に就任した。昭和17年11月27日、63歳で没した。伊予鉄道社葬・二名村葬の後、祖父ヶ峰の墓地に埋葬された。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
高木 秀雄 ・ 郷土の先人 190
高木 秀雄 (たかぎ ひでお)
明治28年~昭和56年(1895~1981) 社会福祉事業家
明治28年3月23日北宇和郡丸穂村(現宇和島市)野川で、高本行正・ツルオの長男として出生。父(明治15年~同17年,愛媛県会議員)が政治運動に挺身して家財を費し、明治37年頃、一家は松山市に転居した。大正3年(1914)、県立松山中学校卒業後、松山税務署に勤務したが、大正6年には台湾総督府属となた。後に台湾の新竹郡・虎尾郡の郡長や屏東市長を務め、昭和14年(1939)行政官を辞し、台湾拓殖㈱参事・海南拓殖㈱常務を務めた後、昭和21年裸一貫で松山に引き揚げた。
内地引揚げ後、焦土と化した日本で、世のため、人のために半世を捧げることを決意した。社会奉仕の精神に燃え、愛媛県社会福祉協議会(県社協)の前身である愛媛県社会事業団の創設に奔走、戦後における愛媛県の社会福祉事業の基礎は、彼によって築かれた。すなわち、県引揚者更生会理事長・県社会事業団理事・県社協理事・県共同募金会評議員などを歴任し、愛媛社会事業館や愛媛母子館の建設に尽力、また県下の民生委員活動を促進するため、県当局と協力してその指導研修に努め、県社協を名実ともに本県民間社会福祉事業の中心的存在たらしめた。
このほか、老人福祉・心身障害者福祉にも力を注ぎ、昭和33年の県老人クラブ連合会の結成を推進、同36年には日野博行とともに松山市に精神薄弱児の施設日野学園を創設した。
昭和51年4月、甥(養子)の住む東京都へ転居した。同53年には、『私の八十年』と題する一代記を出版した。昭和56年5月30日、墓参に帰県し松山で没した。86歳。墓所は東京都港区白金の立行寺。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
高門 嘉夫留 ・ 郷土の先人 189
高門 嘉夫留 (たかかど かおる)
昭和4年~昭和62年(1929~1987) 果樹農業指導者・県議会議員。
昭和4年1月1日、西宇和郡伊方村川永田(現伊方町)で生まれた。昭和21年松山農業学校を卒業した。昭和31年伊方町農業協同組合長、45年西宇和郡青果農業協同組合長を経て、52年1月県青果農業協同組合連合会長に就任した。
温州ミカンの過剰に対応して適地適作を基本とする品種改良、生産流通施設の総合整備、果樹製品輪出の振興などに尽力した。また、オレンジ果樹輸入自由化・枠拡大阻止運動で陣頭に立った。昭和53年から日本果汁農協連会長、60年5月から日本園芸談協連会長の要職に就き、全国果樹農業界のリーダーとして活躍した。
昭和46年4月以来、県議会議員になり4期連続して在職した。政界・農業界の次代を担うニューリーダーとして嘱望されながら、昭和62年2月6日、58歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
清家 齢 ・ 郷土の先人 188
清家 齢 (せいけ とし)
明治34年~昭和47年(1901~1972) 社会運動家。
明治34年11月13日に、宇和島市に生まれる。旧姓は若松、のち結婚して清家となる。女学校を卒業して代用教員となり、北宇和郡下灘村の小学校に勤める。同僚の清家敏住と結婚して上京し、日本女子大学に入学する。在学中に社会科学研究会をつくった。卒業後、労農党の書記となったり、関東婦人同盟中央執行委員として活躍する。
昭和3年共産党に入り、3・15、4・16とたびたび検挙されるが、巧みに地下活動を続けた。昭和10年の検挙で栃木刑務所に収容され、同15年出獄後帰郷した。終戦後は、本県の共産党再建活動に参加し、昭和21年の総選挙に出馬するが落選する。その後、寺尾五郎と結婚。著書に『伝説の時代』がある。昭和47年1月30日、70歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
清家 久米一郎 ・ 郷土の先人 187
清家 久米一郎 (せいけ くめいちろう)
安政6年~昭和21年(1859~1946) 松山電気軌道会社の創立者の1人、県会議員
安政6年6月8日、宇和郡伊方浦(現西宇和郡伊方町)で生まれ,、はじめ井上姓を名乗った。松山英学所・北予変則中学校に学んで、慶応義塾に入った。卒業後、郷里に帰り、郵便局長を経て明治19年伊方浦戸長に就任。途中、九町・二見浦戸長を兼ねた。明治31~35年と37~38年には、伊方村長を務めた。明治28年、九町越鉱山を開発したが、村長を辞した後は松山に転居した。
明治41年3月、松山電気軌道会社を創立、伊予鉄道に対抗して三津一松山一道後間に電車を開通した。私立済美女学校の設立に尽力、育英事業にも力を注ぎ、郷土の子弟の東京遊学を援助した。明治44年9月県会議員になったが、事業に多忙なため1期在任したのみであった。昭和21年8月9日,、87歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
上甲 宗平 ・ 郷土の先人 186
上甲 宗平 (じょうこう そうへい)
文化13年~明治13年(1816~1880) 教育者
宇和町(現西予市)の出身。幼時より学問を好み、終生少年子女の教育に努めた。文久元年私塾を開き、地方の少年子女を集め実語教、庭訓往来、女大学を教える傍ら、書道、算数も授けること12年の長きに及ぶ。
明治5年に学制が布かれると、同地の小学校に奉職し、ますます育英事業に力を注いだ。俳諧にも長じ、生花、礼法にも通じており、ことに挿花は、この地方の宗匠を務め、芳流斉一水の名でもって遠近に知られた。明治13年9月死去、64歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
品川 柳之 ・ 郷土の先人 185
品川 柳之 (しながわ りゅうし)
明治34年~昭和56年(1901~1981) 俳人
北宇和郡吉田町(現宇和島市)の生まれ。本名は三好柳之助。明治34年10月15日に生まれたが、1歳半で東宇和郡宇和町の伯父である品川家を継ぐ。宇和島中学より専修大学予科へ入るが、中途退学して松山高等学校へ入学し、東北帝国大学法科を卒業。中学時代から俳句をつくり、大学では独りで句作する。
昭和14年松山中学校に勤め、富安風生に師事して「若草」の同人となる。同18年応召、復員して松山中学、砥部町原町中学、松山商業高校に勤める。俳句はその間、高浜虚子の指導を受け、昭和21年「雲雀」を創刊して主宰する。松山俳句協会副会長も務める。古武士のような容貌で、飾り気のない人柄が人々から慕われた。
愛媛新聞に、秀句鑑賞の小文「一目一句」を連載し、好評を博す。昭和56年6月16日、79歳で死去。松山市伊予豆比古命神社境内に句碑がある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
谷 世範 ・ 郷土の先人 184
谷 世範 (たに ぜあん)
天保11年~大正7年(1840~1918) 宇和島藩医。
天保11年3月8日、宇和郡平城村(現南宇和郡愛南町御荘)で医師山本文碩の子に生まれた。幼名文策、字は子木、通称を世範、また諒亭と称した。5歳のとき父を失い困窮したが、母方の叔父岡村松軒の下で医術修行をした。18歳のとき砂沢杏雲の門に入って、蘭医学に触れた。翌年、杏雲に従って江戸に行き、竹内玄同の門に入り、傍ら蘭学を学んだ。慶応元年、岡村松鶴と名乗り、長崎留学中後継者に窮していた藩医谷決堂から養子縁組みの申し込みがあり、慶応2年、帰国と同時に谷家に入籍した。
藩の種痘医を拝命し、明治元年には箱館出兵の軍医になった。明治4年宇和島藩医学校・病院設立とともに教授になり,7年県から委託されて松山病院収養館の開設に奔走、直医として勤務した。8年八幡浜に私立病院を開設、傍ら医学塾を開いて医学生を養成した。明治30年医業を長男谷泰吉に譲って隠居した。大正7年11月25日、78歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
清水谷 巌 ・ 郷土の先人 183
清水谷 巌 (しみずだに いわお)
明治9年~昭和31年(1876~1956) 果樹園芸功労者。西宇和郡地方の果樹栽培先覚者であるとともに、夏ミカンの加工及び荷造容器の開発に尽した。
西宇和郡日上村(現八幡浜市日土町)に生まれる。明治20年頃より夏ミカン、雑柑類の栽培に努め、明治22年頃梨の栽培を始めた。4haの面積を自営するとともに、これらの栽培に技術者を雇用して近隣の指導にも務めた。大正5年、西宇和果物同業組合の設立に当っては、初代組合長に就任した。大正6年日上村にクエン酸工場を建設し、夏ミカンの不良果の処理に当った。このクエン酸加工の業績があがるにつれて、大正10年山口県萩市にもクエン酸工場を建設して活動した。また夏ミカン出荷用の竹籠を発案し、日土村に竹材の豊富なことから竹材加工業の発展を促進するとともに、夏ミカン荷造輸送の一大転機をもたらすものとなった。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
坂本 石創 ・ 郷土の先人 182
坂本 石創 (さかもと せきそう)
明治30年~昭和24年(1897~1949) 小説家。
明治30年1月18日、西宇和郡川之石村雨井(現保内町)に生まれる。本名石蔵。八幡浜商業学校在学中から「文章世界」に投稿。卒業後、大阪北浜の株式仲買店に勤務した。大正8年帰郷し、日上村(現八幡浜市)の了月院(浄土宗)にこもり、三か月かかって長編処女作『開かれぬ扉』を書き上京。同9年の「文章世界」巻頭で、田山花袋が激賞した。大正10年に自費出版。これを機に花袋の弟子となる。
その後、『梅雨ばれ』 (同11年)、『蘭子の事』(同12年)、『別後』(同年)を刊行。大正13年、信濃毎日新聞社の学芸部長となり、同15年10月まで健筆を振るった。昭和4年、見解の相違から花袋と絶縁した。都会生活にも見切りをつけて帰郷。地元のタオル工場に勤務のかたわら、随筆風の小品を書く。その間も、小説『結婚狂想曲』をはじめ、多くの随筆などを残す。特に伝記『西山禾山』は傑作とされている。
昭和24年1月24日死去、52歳。墓地は、保内町雨井にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
川原 盛行 ・ 郷土の先人 181
川原 盛行 (かわはら もりゆき)
大正3年~昭和60年(1914~1985) 農業指導者。
大正3年9月20日に生まれ、野村尋常小学校高等科を卒業。昭和18年には、魚成村の助役に就任。昭和27年6月、魚成村農協副組合長に、翌年5月からは組合長として活動する。昭和40年5月には、城川町内4農協の合併を実現し、組合長に就任する。その間、昭和30年6月から県農協中央会理事、同35年から6年間は副会長、同43年には県経済連の専務理事を、同50年からは会長として営農指導の強化を推進した。
昭和60年4月12日、70歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
今井 真澄 郷土の先人 180
今井 真澄 (いまい ますみ)
明治10年~昭和5年(1877~1930) 僧侶・社会福祉家。
明治10年1月17日、宇和郡丸穂村大超寺奥(現宇和島市)に生まれた。明治29年高野山大学卒業後、北宇和郡の妙楽寺住職となり、信徒に慈善救済の必要性を説いた。明治33年、宇和島の龍光院福寿寺第14代住職になると、信徒婦人会を結成した。信徒とともに街頭を巡回し、喜捨として受けた金品を生活に窮する人々に恵与した。明治37年、信徒婦人会を改組し、松根敏(伊達宗城三女)を会長とする宇和島済美婦人会が結成されると、今井は幹事に推された。以後、会員とともに貧困家庭の児童の愛護・貧民救済・軍人遺族の救護に努め、大正11年には、全国でもまだ数少なかった常設託児所(済美保育園,経営は宇和島済美婦人会)を、龍光院境内に設けた。
大正13年、愛媛県に方面委員制度が発足し、また県社会事業協会が創設されると、その発足時から方面委員・協会評議員となり、社会事業発展に貢献した。なお、宇和島済美婦人会は松根敏の後、中原ナツ・宍戸定・山村たか子・田中ナミ・氏本キク子・藤田義子が会長を務め、今日も児童福祉を中心とする社会福祉活動を進めている。昭和5年11月14日、53歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
井谷 正吉 ・ 郷土の先人 179
井谷 正吉 (いたに まさきち)
明治29年~昭和51年(1896~1976) 「明星ヶ丘我等の村」をつくり、無産者解放運動に挺身した。戦後、衆議院議員。
明治29年4月29日、北宇和郡日吉村下鍵山で井谷正命の長男に生まれた。父は私財を投じて道路を開さくするなど、村政功労者であった。大正3年、郡立宇和農蚕学校(現宇和高校)を卒業、兵役入隊を経て7年郡役所土木課に勤務、8~11年三重県度会郡七保村の農業補習学校で教師を勤め、青年と「土民協会」を組織して農村問題を研究した。やがて、東京高等師範学校長丘浅次郎に師事して生物学と進化論を学んだ。神戸に賀川豊彦を訪ね、堺利彦・山川均・安部磯雄・杉山元治郎らを知り、大正11年4月本農民組合の旗上げに参加した。同月帰郷、牧師植村竜也らと日吉村に「明星ヶ丘我等の村」を作り、無産者解放同人の入植を呼びかけ、5月1日ここで四国最初のメーデーを挙行した。
その後、労働農民党・日本晨民党・社会大衆党などの結成に参加して、各党の中央委員・県連会長になった。戦時下、社会運動から離れて広島県豊田郡で瀬戸田学園を経営した。戦後の昭和20年、日本社会党の再建に参加して中央委員になり、22年4月の第23回衆議院議員選挙に3区から立候補して最高点で初当選した。以後、24年1月と27年10月の選挙で落選、28年4月と30年2月の選挙で当選、33年5月と35年11月選挙で落選、38年11月選挙で当選を繰り返した。昭和42年1月選挙での落選を機に、政界を引退した。昭和46年県功労賞、次いで愛媛新聞賞を受けた。昭和51年2月10日、79歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
谷口 泰庵 郷土の先人 178
谷口 泰庵 (たにぐち たいあん)
天保6年~明治24年(1835~1891) 宇和島藩蘭方医。
天保6年、代々小児科御番医として医家相続してきた谷口家に生まれた。幼名泰元。初め大洲の鎌田玄台に学び、嘉永元年、江戸の伊東玄朴に入門して蘭医学を修業した。安政4年、父右庵の死去で跡目相続。種痘医に任ぜられ、祖父の名泰庵を継いだ。
慶応3年、長崎に赴き蘭医ポードワインについて実習した。明治4年、宇和島藩の医学寮一等教官になり、廃藩の後、神山県病院長、次いで県立松山病院医官、医務取締として防疫医療と後進の指導に当たった。明治24年10月、56歳で没した。養子谷口長雄は、熊本医学校を創設した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
谷 了閑 郷土の先人 177
谷 了閑 (たに りょうかん)
宝暦元年~文化2年(1751~1805) 宇和島藩儒医。三代目了閑(諡号「玄津院誠誉諦念居士」)の息。
谷家は、代々藩医中最高の禄高と特別処遇を受ける家柄であった。四代目了閑、本名は哲斎。了寛、了簡伯行、南嶽、槐堂と号した。藩内にあっては、儒学を研学安藤陽洲に受け、大坂、京都、江戸に遊学して蘭医学を修めた。
安永3年(1774)家業相続、同8年「丁閑」を襲名。天明2年には、「法橋」に叙せられ「藩御医師座上」に任ぜられた。藩主村候、村寿の信任はきわめて厚く侍医を務め、藩内医療、後進の指導にもあたった。
著書に、享和元年刊行の『養生談』がある。了閑は,儒学、書道、篆刻にも造詣が深かった。文化2年9月17日、死去。諡号は、「定誉法橋谷信大徳」。宇和島市内霊亀山大超寺に埋葬された。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
二宮 孤松 ・ 郷土の先人 176
二宮 孤松 (にのみや こしょう)
慶応元年~大正5年(1865~1916) 言論人。
慶応元年5月、宇和島藩士二宮覚太夫の次男に生まれた。本名熊次郎。はじめ明倫館で斎藤雄蟻に漢学を学び、明治5年頃、不棄学校で中上川彦次郎から英語を手ほどきされ、南予変則中学校で左氏珠山の教えを受けた。明治13年、15歳のとき同校助教に抜擢されたが、16年18歳で東京に遊学した。末広鉄腸に文才を認められ、新聞記者になった。傍ら私塾で英語を学び、同郷の穂積八束のすすめで大学選科の聴講生として経済学を学んだ。明治21年、末松謙澄と共同通信社を創立、英国女流作家クレイの『谷間の姫百合』を末松と共訳して出版、文名を高めた。
明治21年末、ベルリン大学に留学、渡航中の船中で内務大臣山県有朋の知己を得、25年帰国後内務省嘱託となり、27年には山県の私設秘書として日露戦争に従軍した。 明治31年、新聞「京華日報」を創刊,のもこれに代えて月刊雑誌「世界」を発行した。常に立憲民主・愛国主義の至情に燃えて山県の知遇厚く、しばしば献策して側近として活動した。また子規の俳句革新運動にも参加した。大正5年12月17日、51歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
成田 栄信 ・ 郷土の先人 175
成田 栄信 (なりた しげのぶ)
明治2年~昭和21年(1869~1946) 言論人、衆議院議員。
明治2年11月14日、宇和郡下灘村(現宇和島市津島町)に生まれた。代議士などの書生をしながら苦学して関西法律学校(現関西大学)、英吉利法律学校(現中央大学)に学んだ。明治27年の第3回衆議院議員選挙では第5区で出馬した清水隆徳の運動員となり、東宇和郡伊延山に大砲を引き上げて実弾を発射、小銃を放って、運動妨害を図る古谷周道派の自由党壮士の度胆を抜いて話題となった。
生命保険事業に従事した後、文筆活動を始め,東京社を創立して雑誌「東京」を発行,40年には東洋通信社を創立した。かねて機会をねらっていた代議士になるべく、明治45年5月の第11回衆議院議員選挙に政友会から出馬当選した。大正4年3月の選挙では次点に甘んじたが、古谷久綱の死去で繰り上げ当選、以後13年の第15回衆議院議員選挙まで連続して当選した。大正12年海南新聞社の経営を引き受けて社長になったが、成田の独走を不満とする岩崎一高ら政友会県支部幹部との軋轢が強まった。その後、政友会が経済援助を断ったので経営危機に陥った。そのうえ、成田が大正13年の政友会分裂で政友本党に走り、政友会県支部は別に機関紙「伊豫新報」を発行したので、海南新聞は神戸新聞に経営を委ねるなど窮地に立った。成田は政友本党からも除名されて、昭和3年2月の第16回衆議院議員選挙には、無所属中立で立候補したが落選した。以後、満州に渡って日満新興公司を設立したりした。昭和21年1月1日、76歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
毛利 松平 ・ 郷土の先人 174
毛利 松平 (もうり まつへい)
大正2年~昭和60年(1913~1985) 衆議院議員、第二次田中内閣環境庁長官。
大正2年7月16日、西宇和郡三机村大江(現伊方町)で生まれた。大洲中学校から慶応義塾大学法学部政治学科に進み、昭和13年に卒業した。南満州鉄道に入社して撫順炭鉱に赴任、労務課長として大学時代からの夢であった〝大陸日本の建設〟に取り組んだが敗戦で挫折した。帰国後、政治を志し昭和27年10月の衆議院議員選挙に第2区から改進党公認で立候補して落選、以後28年4月、30年2月と計3回苦杯をなめた。この間、不屈の精神と逞しい行動力で支持層を拡大、昭和33年5月の第28回選挙で初当選して、念願の衆議院議員になった。
以後、昭和55年6月の第36回選挙まで9回連続当選した。その間、外務政務次官、衆院大蔵委員長、自民党副幹事長、党県連会長などを歴任。地元南予の水資源開発、南レク、道路整備などの事業推進に尽力した。昭和49年、第二次田中内閣の環境庁長官に就任した。豪放磊落な性格で武道をよくし,柔道七段、空手、合気道も高段者で、武道館理事長、極真会会長を務めた。
昭和58年2月25日、勤続議員の表彰を受け、同年秋には勲一等瑞宝章を受章し、同年末の衆院選を機に健康上の理由で勇退した。昭和59年に県功労賞を受けた。これを記念して、この年12月出身地の瀬戸町役場前庭に胸像が建立された。昭和60年5月24日、71歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)