郷土の先人 ➀
井関 盛艮・郷土の先人 27
井関 盛艮 (いせき もりとめ)
天保4年~明治23年(1833~1890)幕末宇和島藩で国事に奔走。神奈川県知事として、日本最初の日刊紙「横浜毎日新聞」を企画創刊した。
天保4年4月21日、宇和島藩作事奉行井関盛古の次男として、宇和島城下富沢町に生まれた。通称斎右衛門。一時、同藩吉見氏の養子になったが、安政6年18歳のとき兄の死亡により実家に帰って家督相続した。文久3年大目付軍使兼寺社奉行となり、伊達宗城に従って京都に上り、周旋方として各藩との交渉に奔走した。慶応2年には藩の産物処理総責任者として、長崎に赴き外国人と接触するなど、幕末宇和島藩にあって最も重要な人物の一人であった(イギリスの外交官アーネスト・サトウは「宇和島藩士で最も重要な人物」と盛艮を書き記している)。
維新後、明治新政府に出仕。明治元年徴士参与職外国事務局判事として横浜に赴任、6月神奈川府判事、2年4月神奈川県知事、7月外務大亟に任ぜられ、県行政と外交を推進する重責を担った。明治2年イギリス人技師H・ブランドンの設計監督になる無橋脚式鉄橋を完成。3年12月8日には、本木昌造に協力を求めて、活版印刷による日本最初の日刊紙「横浜毎日新聞」を発刊するなど、文明開化の最先端を行く「ミナト横浜」の開発に尽くした。
当時、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)の『海外新聞』など外国語の新聞や国内のニュースを載せた新聞は存在し、また、国内のニュースを伝える新聞が東京・大阪・京都・長崎などで刊行された。こうした状況下、盛艮は気鋭の政治家らしく、ニュースを即日に伝える日刊新聞の発刊を思い立った。外に聞かれた窓口をもつ開港場にあって日々流動する情勢を把握することは、貿易の発展に不可欠と考えたのである。発刊の地は現在、横浜農林水産消費技術センターになっているが、昭和37年に「日刊新聞発祥の地」の記念碑が構内に建てられ、第29号の紙面を原寸大に複製したものが金版ではめこまれている(第1号が発見されたのは2年後のことだった)。記事は貿易関係の情報を主とし、これに内外のニュースを加えたもので、たとえば横浜に出入港する船舶の紹介や貿易取引状況は細部にわたって連日掲載、また新橋・横浜間の鉄道敷設工事が六郷の鉄橋(鉄道の橋という意味で実際は木橋)までいたるといった記事、火事や一揆(畑税増反対、雑税廃止要求など)のニュース、あるいはサギ師まがいの外国商人が横行し被害にあったとか、サムライ風の男が床屋でザンギリ髪を切り揃えようとしてトラ刈りにされてしまった話など、どれも時勢を反映している。広告が多かったのもこの新聞の特徴で、たとえば西洋仕立ての服装一式販売、普仏戦争従軍記の邦訳出版、輸入水販売、写真館開業の知らせなど、これも時代を彷彿とさせるものが目にとまる。経営はこの広告収入に多く頼っていた(資金面ではのちに、富商の原善三郎、島田豊寛らが協力するようになる)。また、定期購読者には戸別配送する方式をとったのも新しいことだった。明治4年4月からは4ページ立てに増やし、同6年には文章方(記者)として栗本鋤雲や島田三郎が入社、七年には仮名垣魯文も雑報記者となっている。
また外交面では、スペイン・ドイツなどとの修好条約締結交渉に従事した。
健康上の理由で帰郷を思い立ち、4年11月27日宇和島県参事に発令されるが、2週間後の12月12日には名古屋県権令に任命されて、5年2月14日に着任した。同県では,新聞発行奨励をはじめ、娼妓解放、医学校設立、殖産興業などを実行した。明治6年10月島根県権令(7年10月県令)に転じて、9年5月まで県政を担当した。同県では,「県民会」と称する地方議会を開設、松江農事試験場・浜田教育伝習所などを設立した。
その後、官界を退いて実業界に入り、甲武鉄道発起人として東京-八王子間の鉄道敷設に尽力、第二十国立銀行取締役、東京株式取引所役員などを務めた。明治23年2月13日、56歳で没した。横浜市中区本町に昭和37年「日刊新聞発祥の地」碑が建立され、横浜毎日新聞紙面の銅板写しと共に「その計画者、時の神奈川県令井関盛艮……」の名が彫り込まれている。(参考・愛媛県生涯学習センター資料、ウィキペディアなど)
油屋 熊八・郷土の先人 26
油屋 熊八 (あぶらや くまはち)
文久3年~昭和10年(1863~1935)実業家。
宇和島竪新町(現宇和島市新町1丁目)で、文久3年7月油屋正輔の長男に生まれ、やがて家業の米問屋を継いだ。明治23年37歳のとき町議に選ばれるが、大阪に出て米相場師となる。しかしこれに失敗、アメリカに渡る。3年後に帰国、再び大阪で相場師となる。明治44年別府に出て、亀の井旅館を経営。大正13年12月1日、亀の井ホテルを創立(総資本金20万円)する。
昭和2年に自動車4台を購入し、地獄巡りをはじめ日本最初のバスガイド嬢を採用するなど、観光事業に新しいアイディアをとり入れた。昭和3年1月23日、株式会社亀の井ホテル自動車部の資産、営業の一切を継承して亀の井自動車株式会社を創立(総資本金10万円)した。
この間、梅田凡平らとともに別府宣伝協会を立ち上げ、別府お伽倶楽部のお伽船の活動に参加する中で、自らのもてなしの哲学と様々な奇抜なアイデアで別府の宣伝に努め、大正の広重といわれる盟友吉田初三郎とともに、別府の名前を全国へと広めた。さらに、中谷巳次郎とともに由布岳の麓の静かな温泉地由布院に、内外からの著名人を招き接待する別荘(現在の亀の井別荘)を建て「別府の奥座敷」として開発している。
クリスチャンで酒を飲まず、「旅館は体を休める所であり、飲酒をしたいなら外で飲むか他の旅館に行ってくれ」が熊八の口癖であったため、当時では珍しく酒類の提供は行わせなかった。ある時、森永製菓の創業者である森永太一郎が滞在中に酒を注文しようとして断られるが、なおも食い下がる太一郎に向かって「あなたは子供のための菓子を作っている会社の社長であるのに、酒が飲めないと悔しがるのはおかしい」と言い放った位に徹底していた。また亀の井自動車もその影響を受け、運転手の飲酒を禁止し、破った運転手は乗務禁止を課していた。しかし、旅館で禁酒はあまりにも可哀相だという意見が多くなったため、清酒は2合、ビールは1本を限度に提供を開始した。
熊八は、城島高原、別府ゴルフ場、由布院、九州横断道路の観光事業開発に力を注ぎ、また民衆外務大臣と称し観光都市別府を広く内外に宣伝するなど、別府の観光事業史上、大きな功績を残した。昭和初年ころ別府商工会議所が設立されると、同商工会議所議員になった。
今でこそ観光地の売出しや開発には公費の支出が当たり前だが、別府温泉の宣伝は、すべて熊八個人の私財と借財でまかなわれていた。そのため、熊八没後、亀の井自動車や旅館は借金の返済のため売り払われたが、その行動力と独創力に敬意をこめ別府観光の父・別府の恩人として慕われ、現在、別府市民らで「油屋熊八翁を偲ぶ会」が作られている。平成9年11月1日には、その偉業を称えて大分みらい信用金庫(本社・別府市)の依頼により、別府駅前にブロンズ像が建てられた。そのブロンズ像は片足で両手を挙げ、熊八がまとうマントには小鬼が取りついている。これは、制作した彫刻家・辻畑隆子によると、天国から舞い降りた熊八が「やあ!」と呼びかけているイメージとのこと。昭和10年3月27日71歳で死去。墓は故郷の宇和島市の光国寺にある。
熊八のアイデア
大阪と別府港を結ぶ定期航路の汽船は、当初は沖合に停泊し客は危険を伴うはしけでの上陸を強いられていたが、汽船を運航する大阪商船に掛け合い、大正4年には汽船が接岸出来る専用桟橋を実現させた。
「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを考案し、このフレーズを刻んだ標柱を、大正14年に富士山山頂付近に建てたのをはじめ、全国各地に建てて回った。また、建設する予定はさらさら無いところにでも「別府温泉 亀の井ホテル建設予定地」の立て看板を、別府市内・大分県内はもとより福岡・大阪・東京に立て別府を宣伝した。
自動車の発展を見越して、現在の九州横断道路(やまなみハイウェイ)の原型でもある、別府~湯布院~くじゅう高原~阿蘇~熊本~雲仙~長崎間の観光自動車道を提唱し、大正14年にはルート上の長者原にホテルを開設した。
昭和元年に、別府ゴルフリンクスというゴルフ場を開き、温泉保養地とスポーツを組み合わせた新しいレジャーの形を提案した。
昭和2年に、大阪毎日新聞主催で「日本新八景」が選ばれた際に、ハガキを別府市民に配って組織的に投票を行い、別府を首位に導いた。
昭和3年に、日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスで別府地獄めぐりの運行を始めた。
昭和6年から、手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」を亀の井ホテルで開催した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料、ウィキペディアなど)
朝家 萬太郎・郷土の先人 25
朝家 萬太郎 (あさいえ まんたろう)
明治6年~大正15年(1873~1926)愛媛県における缶詰製造業開拓の功労者。
明治6年12月15日北宇和郡魚棚町(現宇和島市吉田町魚棚)で、朝家利平の長男として生まれる。明治28年水産講習所(現東京水産大学)に入所、同30年布哇貿易に従事して輸出の方法を学んで帰郷し、33年8月地元で朝家罐詰所を開設した。明治36年6月3日付で、特許局に三輪マークの登録商標が登録されている。これによると、登録番号は第19510号、営業所は吉田町字魚棚57番地、営業品目は牛肉・獣肉・鳥肉・魚類・海苔・昆布・荒布・佃煮・雲丹・野菜類・果実の缶詰等となっている。
大正3年にサンフランシスコで開催された万国博覧会に、かまぼこ缶詰を出品し銅賞を授与されるなど、その名声は全国的に轟いた。輸出額も、全国の半数もしくは三分の一を占めた。さらに、夏みかんを原料としたオレンジママレードは有名で、陸軍や海軍向納品を主力として業績を大きく伸ばした。
萬太郎は大正15年に53歳で亡くなったが、昭和12年11月、町内外の有志が出資して吉田産業株式会社が設立され、翌13年吉田港の一角に工場を建設し缶詰製造を開始した。同14年には朝家、吉田の2工場でみかん50万貫(1875t)の加工計画がもたれるなど、缶詰工業はまさに吉田町の花形産業となった。さらに昭和16年4月には、広島県宇品に本社をもつ宇品確詰を開設し、筍缶詰などを製造した。従来からの町の主産業であった製糸業に代わる勢いにあった。
しかし3社が揃った昭和16年12月、太平洋戦争が勃発した。産業界も大きく変わり、缶詰工業もきびしい規制のもとで生産活動は制限された。このため同業界はたちまち極度の業績不振に陥った。宇品罐詰の操業停止に引き続き、19年には企業整備により、吉田産業が愛媛罐詰宇和島工場に吸収されるなどして、吉田町の缶詰工業は急激に衰退していった。
その後、社名は愛媛食品興業株式会社(現在・株式会社アール・シー・フードパック)になるなど経営陣が変わり、本社工場を宇和町(西予市宇和町卯之町)に移すまで吉田町の産業界の主軸となった。三輪マークの商標は、愛媛食品興業株式会社には引き継がれ、朝家罐詰のかつての名声をとどめたが、現在は新しいものに変わってしまった。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
五百木 竹四郎・郷土の先人 24
五百木 竹四郎 (いおき たけしろう)
明治20年~昭和18年(1887~1943)実業家。上野精養軒の初代総支配人。
明治20年、北宇和郡裡町(現宇和島市裡町)の魚行商人の四男に生まれる。父は魚のふり売り(行商)をしていた。10歳のとき父が死に、残されたのは母子9人の大家族で、貧乏も底をつき食うや食わずのひどい暮らしが続いた。そのような中、14歳ころから魚の行商をして家計を助けた。
16歳で横浜へ出た。ホテルの調理見習いに入り、皿洗いから修業する。やがて東京築地の精養軒に入り、コックとして一流の腕前になった。28歳で支配人となり、35歳で社長になった。生来積極性に富み、かつがまん強い性格で、保守的な株主たちと衝突して社長をやめ独立した。丸之内会館、丸ビル精養軒、やがて松島パークホテル、岐阜の長良川ホテル、札幌のグランドホテルなどを手がけ、香港・シンガポールにまで進出した。昭和18年死去、56歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
加賀山 金平 郷土の先人 23
加賀山 金平 (かがやま きんぺい)
天保2年~明治35年(1831~1902)明治初期における、立間ミカンの栽培先覚者。宇和郡立間村(現宇和島市吉田町)に生まれる。
立間の温州ミカンは、慶応元年宇和郡俵津浦の苗木商熊吉が、兵庫県川辺郡東野村より温州ミカン苗55本を導入し、立間村白井谷の加賀山千代吉が植栽したのが、紀州産苗木導入のはじめとされている。
その後明治初年には、立間村の三角勘六が商用で上阪するのに託して、前記東野村より温州苗木数十本を導入し、加賀山金平等がこれを試植した。次いで明治4~5年頃より直接東野村から苗木を購入し山野を開墾、あるいは良圃に栽植して、果樹栽培の有利性を説き勧奨に務めた。特に加賀山金平は、自ら東野村に赴き,苗木を購入移植して栽培の拡張を図った。
明治17年、東京で開催された第10回全国重要物産共進会に加賀山金平が出品したリウリン(温州ミカン)が一等賞を獲得し、立間ミカンの名声をあげた。その外、在来品種の中から優良品種の接穂を前記東野村に送り、優良苗木の繁殖につとめるなど、立間ミカン中興の祖となった。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
土居 通夫 郷土の先人 22
土居 通夫 (どい みちお)
天保8年~大正6年(1837~1917)志士、官吏、実業家、衆議院議員。大阪商業会議所初代会頭で、大阪実業界の指導者であった。
天保8年4月21日、宇和島藩士大塚南平祐紀の六男に生まれ、17歳で元服して彦六と称し、後に父の里方の姓土居を名乗った。藩校明倫館で漢学を学んだ。このとき、児島惟謙とは年が近く竹馬の友となった。田宮流の剣法を学び、免許皆伝を受ける。幕末宇和島に来遊した坂本竜馬や、薩摩藩士田中幸助らと知り合った。慶応元年脱藩して上坂し、伯父の薪炭商伊予屋為蔵を頼り、高利貸しの鴻池三郎兵衛の所へ住み込んだ。
慶応3年、田中幸助の勧誘で上洛して尊王の志士として奔走。鳥羽伏見の戦いに際し、宇和島藩の兵糧米を確保した功績で藩への帰参が許された。
明治維新後,大阪裁判所の長官になった伊達宗城に仕えた。間もなく大阪府権少参事に任命され、明治15年には大阪控訴裁判所詰め司法官になった。裁判官退官後、鴻池善右衛門家の顧問となり、家憲を制定するなど同家の家政改革に尽力するなど、鴻池家が関係していた諸事業に参画した 。
明治20年鴻池家の推挙で、大阪電灯会社の創立委員、次いで社長になった。 27年3月第3回衆議院議員選挙で大阪から当選、「ともかくも 一本立てよ ことし竹」の句を詠んで一時国会に議席を得た。28年大阪商業会議所の七代会頭に就任。「堪忍を守る事業第一肝要なり」を生活信条に終生その重責を務め、京阪電気会社社長、日本生命保険会社・大日本麦酒会社の各取締役、中央電気協会会長などの要職を兼ねた。そのほか堂島米穀取引所理事長、大阪銀行取引所理事長、日本電気協会会長、大阪実業協会会長などを歴任し、明治中・後期における大阪財界の最有力指導者として活躍した。有名人は名前だけなら貸しましょうと言うものだが、彼は名前だけなら貸せませぬが口癖、名誉職に甘んじることはなかった。
土居通夫といえば、誰もが多芸多才を口にする。書は三好竹陰の高弟、浄瑠璃は竹本摂津大掾(だいじょう)に師事して玄人はだし、南画に巧みで囲碁は財界に敵なし、二畳庵桃兮(にじょうあんとうけい)に学んだ俳句は、俳人として俳壇史に名をとどめるほど。江戸時代からの松木淡淡(芭蕉の弟子)派を継いだ名門俳流「八千房」の七世流美が死んだとき、後継者が不在でもめ、結局通夫が八世八千房を継いだことがある。また大阪・新世界のシンボル「通天閣」は、通夫がパリ万博のエッフェル塔をまねて作らせたもので、周りの猛反対を押し切っての建設であった。
大正6年9月9日80歳で没したが、藤山雷太は弔詞で「君ノ徳量海ノ如ク識見亦能ク人材挙ゲ能ク人言ヲ容シ関西実業界ノ重鎮ニシテ国家有用ノ材タリ」とその死を惜しみ、同郷の穂積陳重は「君は先見の人であった」「君は寛宏の人であった」と評した。通夫の墓は阿倍野墓地(大阪市阿倍野区阿倍野筋4丁目)にある。また大阪商工会議所(同中央区)前に銅像が立っている。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料、ウィキペディアなど)
加賀山 平次郎・郷土の先人 21
明和7年~天保15年(1770~1844)温州ミカン導入の先覚者。
吉田領の宇和郡立間村白井谷(現宇和島市吉田町)生まれ、古吉とも称した。明治24年版『愛媛県農事概要』に「蜜柑ハ北宇和郡立間村ン特産ニシテ,伊予大蜜柑卜称スルモノ即チ是ナリ」とある。この立間村に、温州蜜柑を最初に導入したのが平次郎であった。
温州ミカンは、400~500年前に鹿児島県長島町で発生。種なしで食べやすく、美味しいことから栽培が広まった。寛政5年(1793)平次郎23歳のとき,土佐国香美郡山北村(現,香我美町)から紀州原産の温州蜜柑(当時リウリンと呼ぶ,季夫人の転化か)の苗を求め、これを庭先に植えた。
後にこれを母樹として寄せ接ぎを行い、苗木を育成し親戚・縁者に配った。その結果、温州蜜柑は立間川流域の緩傾斜面に拡大した。平次郎の長男千代吉の代にも紀州系の苗木が導入され、さらに改良された。
平次郎の植えた温州みかんの原木は明治10年で枯れてしまったが、2代目は平成10年まで残っていた。3代目は、現在も元気に加賀山氏のみかん園で育っている。平次郎は天保15年9月3日74歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料、宇和島市ホームページなど)
山下 亀三郎・郷土の先人 20
山下 亀三郎 (やました かめさぶろう)
慶応3年~昭和19年(1867~1944)実業家。慶応3年4月9日、愛媛県宇和郡河内村(現宇和島市吉田町)の庄屋の四男として生まれる。庄屋の子として厳しく躾けられたが、庄屋の家に生まれたことを心の糧とした。
宇和島の旧制南予中学校(現: 宇和島東高)に入学したが、明治15年に同校を中退し、出奔した。しかし、家出したその日の宇和島は暴風雨で、やむなく知人の家に厄介になった。すると、母からの使いの者が現われ「男子がいったん村を逃げて出て、おめおめ村へ帰ってくるようなことがあってはならない。大手を振って村の道が歩いて帰れるようになるまで帰ってくるな」と伝言を告げた。この言葉を糧に、亀三郎は四国を後にする。
大阪に出たが、家出少年を雇ってくれるところはなく、京都の友人を頼って祇園清井町の下宿宿に世話になり、小学校の助教員を務めた。京都の生活で、新島襄を助けて同志社を設立した山本覚馬と出会い、山本が主宰する私塾にも足を運ぶようになる。その後山本の勧めで東京に出て、明治法律学校に学んだ。ここには、明治民法の起草者であった法学者の穂積陳重が出講していたので、彼から個人的に法律学の教授を受けた。「ドロ亀」というあだ名を持ち、後に自ら無学であるかのように記している山下だが、実際は勉強にも精励したという一面もあった。世の中には、こういった方が結構多いものだ。
22歳の時に、明治法律学校を退学して、富士製紙会社に入るが長続きせず、次に大倉孫兵衛紙店の店員となった。その後、横浜貿易商会の支配人、池田文次郎店などを転々とする。明治25年、横浜出身の朝倉カメ子と結婚するが、翌年に池田商店が倒産してしまう。山下は明治27年、横浜太田町に洋紙売買の山下商店を始めた。山下が独立した第一歩である。しかし事業はうまくいかず、とうとう店をたたむことになる。その直後、竹内兄弟商会の石炭販売部に入った。日清戦争の時期にあたり、石炭業界は好景気に沸いていた。ここで山下は石炭輸送の必要から、初めて海運業と接する。明治30年、竹内兄弟商会の石炭部を譲り受け個人商店として独立し、名称を横浜石炭商会と変えた。
明治35年、英国船ベンベニニー号(2,373トン)を購入、喜佐方丸と命名し海運業に乗り出した。喜佐方丸の名は生まれ故郷の村の名前であり、山下は村を出てから20年にして「大手を振って村の道が歩ける」船主になったのである。しかし、船舶経営の経験に乏しい山下は、さしあたりブローカーの力を借りて横浜・上海航路の事業に着手するが、燃料代にも事欠く有様であった。山下は、同じ愛媛県出身の海軍軍人・秋山真之とも親しい間柄であった。喜佐方丸購入直前、山下は秋山から「日露開戦近し」の情報を入手していた。戦争になると民間船舶も徴用される。また徴用船の傭船価格は一般の価格よりも有利であることは、日清戦争時の経験から知っていた。
山下は、喜佐方丸を購入すると早速、近親の古谷久綱(元伊藤博文首相秘書官)を通じて、明治36年12月、徴用船の指定を受ける。しかし、この時の喜佐方丸は、三井物産依頼の積荷の石炭を載せて、上海に出航する直前で長崎県佐々港にいた。上海を往復している間に徴用船指定を解除されたら大変だと、三井の大阪支店長・福井菊三郎に事情を話して了解を求めておき、横浜に帰って石炭を陸揚げして処置をつけ、喜佐方丸は海軍に引き渡した。こうして、無事、喜佐方丸は納期までに海軍に届けられた。これに勢いを得て、明治37年第二喜佐方丸を購入、直ちに海軍に徴用船として提供する。さらに他社の貨物を手配し、他社船でこれを運送する海運オペレーションの分野にも進出する。
日露戦争後、明治40年に入ると日本は深刻な戦後不況に突入する。海軍の徴用船を主として経営を行っていた山下は、この影響をもろに受け、さらに北海道の木材事業にも失敗し、数百万円の負債を背負った。ここで山下は、返済に奇想天外な方法を考案する。「菱形償却法」と呼ばれる返済方式で、返済に元利均等、元金均等などの一定の枠組みを設けず、最初は少しずつ利益が出るようになったら多く返済するというものである。山下はこの方式で債権者を説得し、20年分の菱形償却法による返済を認めさせた。その後の好況の波に乗り、わずか7年で完済している。
明治42年以降、外航海運は好転し、山下も着実に海運業を発展させる。明治44年6月には、資本金10万円で組織を合名会社に変更して山下汽船合名会社を発足し、本店は東京市日本橋区北島町(現: 東京都中央区日本橋茅場町)に移転し、支店も神戸に開設した。
大正3年に第一次世界大戦が勃発すると、海運業は空前の好景気となった。大戦前のトン当たりチャーター料3円、船価50円程度であったが、大正6年には、チャーター料が国内で30円、ヨーロッパで45円、船価6,700円と十数倍になった。山下は、勝田銀次郎・内田信也とともに三大船成金と称せられた。この間、大正4年6月には、満州の大連に山下汽船合名会社を設立、次いで11月に石炭部を分離独立させて山下石炭株式会社とし、翌大正5年8月には渋沢栄一らと扶桑海上保険(現: 三井住友海上)を創立した。さらに、大正6年5月には、山下汽船合名会社を資本金1,000万円の株式会社に改組拡充して別会社の山下合名会社をつくり、8月には浦賀船渠株式会社(現: 住友重機械工業)を創立するなど、矢継ぎ早に事業を拡大していった。
大正6年5月、山下汽船株式会社と改め社長となったとき、山下は50歳であった。海運業開始以来、船腹拡充に積極的に取り組み、不定期船事業の雄として山下汽船の名を高めた。大戦中、山下の上げた利益は実に年間2,900万円にのぼる。大正8年当時の総理大臣の年俸は12,000円、各省大臣や東大総長の年俸は8,000円であったので、山下がいかに巨額の利益をあげたかが窺い知れる。
その後、海運業だけでなく、広く財界、官界さらに軍部の要人と交際し、昭和18年3月には、時の東條内閣によって創設された内閣顧問に任命され、大正・昭和期の代表的政商とさえ称された。政府関係の委員にも就任し、第二次世界大戦末期には行政査察使に就任し北海道視察に行くが、このとき病を得てしまい昭和19年12月13日死去した。
山下の功績は、主宰した山下汽船を世界有数のトランプ(不定期船)オペレーターにし、日本海運の伸展と船権拡張に寄与しただけではない。山下汽船から多くの人材が輩出され、いわゆる山下学校と称された。公共事業にも尽くし、大正6年、故郷吉田町に山下実科高等女学校(現吉田高校)、大正9年、母親の生地三瓶町に第二山下実科高等女学校(現三瓶高校)を設立して、郷土に錦を飾った。建てた学校が、県立高校として2校も続いているなどは、国内広しと言えども稀有な話しである。郷里以外でも、軍人子弟の教育援助のため多額の寄付をするなど、教育界への貢献が大きかった。吉田町桜橋の北側に、吉田茂首相の題字による「山下亀三郎翁像」が建っている。
山下汽船の最盛時ともいうべき昭和16年当時の日本の総船腹量は1,962隻で、内訳は日本郵船133隻、大阪商船109隻、山下汽船55隻、大連汽船54隻、川崎汽船35隻、三井物産(商船部門)32隻であった。明治から昭和初期にかけて日本郵船と大阪商船の2社が飛びぬけていたが、太平洋戦争開戦時において、山下汽船はこの2社に迫る会社となっていた。しかし敗戦により、昭和22年、山下株式会社は財閥解体で第五次持株会社指定をうけることになった。
石原慎太郎と裕次郎兄弟の父親、石原潔(長浜出身・宇和島中学中退)は山下亀三郎と同じ南予で生れ育ちその縁あって大正3年、14歳の時に山下汽船の船童として採用される、つまり小僧として中学中退で入社した。昭和26年、51歳で死ぬまで勤めている。潔は単なる真面目サラリーマンではなくたたきあげの凄腕、遊び人でかなりの洒落者だったようである。中堅社員になった潔はカッとなって大胆無謀な行動をしたため、クビになるところを亀三郎がその短慮を愛したが故にそうならずにすみ、罰として小樽支店に飛ばして、樺太の材木を山から伐採させて内地にピストン輸送する仕事をさせた。このような荒仕事は、荒れくれ者たちをしごいて使わねばならず、やわな人間ではできない、潔はこれを見事にこなして汚名をそそぎ、小樽の支店長になった。
このころから潔の生活水準はあがり、慎太郎・裕次郎兄弟は瀟洒な家に住み、お坊ちゃん風に育てられ、ハイカラな幼稚園に通った。
やがて昭和18年に逗子に転勤することになる。山下汽船で重役を努め、逗子に引っ越してからは子供にヨットを買い与えるほどの余裕のある生活が出来た。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は亀三郎の別邸だった。そういった慎太郎だが(裕次郎もそうであった)、父の故郷・愛媛のことを語ろうとしない事は残念である。
山下汽船は、別名「山下学校」と呼ばれたほど、多くの人材を輩出した。その人材育成に山下流の智恵が働いている。社員の採用も、ユニークだった。亀三郎は、会社の草創期は故郷愛媛の「地縁」を頼りに社員をかき集めたが、事業が軌道にのると、大学卒の新戦力を積極的に登用している。採用の核心を次のように語った。「わしのところは、小僧上がりと大学の俊秀とを二つの柱として組織した。郷里の伊予から小学校、高等小学校を終えたばかりの筋のいい小僧を『店童』として引っ張ってくる。大学は、京都(帝大)は末広重雄博士、東京(帝大)は穂積陳重先生からそれぞれ糸を引いてもらって連れてくる。給料は大会社の最低2割増しだ」
末広、穂積とも同郷で、それぞれの帝大法科に君臨する「法王」だった。山下は、両教授の人脈をフルに活用した。亀三郎は、社員の人事権を終生、誰にも渡さなかった。採用面接には、どんなに忙しくても山下自身が臨み決裁した。採用、不採用の決め方が、これまた独特であった。パッと見で決めてしまうのだ。本人は「一顔一決主義」と言った。「創業以来、人を採る信念は少しも違わない。すなわち一顔一決主義である。本人に両親があるかないかを聞き、その父と母を暗黙のうちに思い浮かべて採否を決するのである。だから早いのは二、三分、いくら遅くなっても五分以上かかったことはない。百人くらいの採否を決めるのには三時間もあったらたくさんだ」と。二、三分で人生を決められる方はたまったものではない。面接をろくにしないで採否を決めるとは人を馬鹿にしていると不採用者から非難の声が上がったこともある。しかし、山下は動じない。「私は、書物は眼鏡なしでは一行も読めないけれど、人間を見る目は眼鏡など必要としないつもりだ。学校の成績などは、その科目を記憶していたか、いなかったかというだけの話であって、人間としての神経が間違っていたなら、いかに立派な成績表でも役に立つものではない」と。若者の「人間としての神経」を見極めるのは、数分もあれば十分だと言うのだ。この絶大な自信、人を見る「内智」は、浮きつ沈みつの人生経験で養われたのだろう。いかに科学技術が進歩しても、「人間を見る目」は実体験で身につける他はないと言うのだ。
山下は、人の評価、「信用の鍵」は、「第三者」が握っているとも言った。本人の自己申告よりも、他人の評価のほうが正しい。だから、傲慢な経営者が「このくらいは他人にはわかるまい」と不正をしたとしても、周囲は重々承知なのだ。第三者から「あのやり方ではだめだな」と見られている会社は、だいたい潰れると警鐘を鳴らす。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料、ウィキペディア、日経ビジネスなど)
松本 良之助・郷土の先人 19
松本 良之助 (まつもと りょうのすけ)
明治16年~昭和51年(1883~1976)社会福祉・社会教育者。
明治16年2月2日、宇和島町元結掛に生まれ、明治34年宇和島中学校卒業後、一時、小学校の代用教員となる。キリスト教に傾倒し教員を辞して洗礼を受け、後に宇和島中町教会の日曜学校校長となる。大正13年3月、愛媛県方面委員制度発足とともに委員となり、昭和21年以降も民生委員として中平常太郎・今井真澄らとともに宇和島のみならず本県の社会福祉発展に尽力した。
この間、宇和島市会議員(2期)、愛媛県司法保護委員・家庭裁判所調停員・人権擁護委員・宇和島市社会教育委員長などを歴任し、藍授褒章や勲五等瑞宝章などを受けた。特に昭和6年宇和島市民共済会授産場長となり、生活困窮者の援護に努めるとともに同会授産場を全国有数のものに育てあげた。このため、同25年3月には宇和島市に行幸された天皇陛下に授産事業について進講した。なお、彼は日々の感想を詩に綴って日記がわりに書き留め,昭和45年『松本良之助詩文選』を著している。昭和51年12月5日,93歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)
山下 友枝・郷土の先人 18
山下 友枝 (やました ともえ)
明治34年~昭和54年(1901~1979)部落解放活動家。明治34年9月1日、宇和島市で石口家の長女に生まれる。翌年母の実家の北宇和郡岩松の伯父山下太市の養女となる。大正3年岩松尋常小学校を卒業し、高等科へ進んだが中途退学する。
大正9年、20歳のとき、大洲から婿養子佐々一を迎える。佐々一は、大正15年県善隣会の評議員となり、昭和6年森盲天外らと善隣運動協調促進会をつくった。
友枝は、祖父・繁蔵や夫・佐々一の進めてきた部落改善運動に飽きたらず、水平運動に強い関心をもった。友枝の基本的な考え方の中には、部落差別に対する強い憤りがあり、部落民が自覚し団結して運動しなければならないことを強く主張した。昭和10年、水平社岩松支部が設立され、同12年には東京の全国水平社第14回大会に愛媛県の代議員として出席した。
戦後、昭和22年、女性としてはじめて岩松町会議員に選ばれ、津島町となってからも連続8回当選して29年間議員を務めた。昭和44年には副議長にもなった。その間,町の福祉行政、同和対策、同和教育の発展に尽力する。昭和30年部落解放全国委員会が部落解放同盟と改称されたとき、中央委員にもなった。昭和34年には、岩松で部落解放同盟愛媛大会を開き、愛媛県連合会委員長に推される。同36年には、訪中団の紅一点として中国を訪問する。県知事を会長とする愛媛同和対策協議会がつくられたが、解放同盟の方針を堅持して役職にはつかなかった。
戦前・戦後を通して、部落解放と地域社会の民主化、地域住民の福祉と教育のために生涯をささげ、昭和54年4月12日、 77歳で死去。昭和50年には、津島町寿町に頌徳碑が建てられた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)
増原 恵吉・郷土の先人 17
増原 恵吉 (ますはら けいきち)
明治36年~昭和60年(1903~1985)内務官僚・香川県知事・戦後参議院議員となり、行政管理庁長官・防衛庁長官などを歴任した。
明治36年1月13日、北宇和郡宇和島町(現宇和島市)で増原定蔵の次男に生まれた。宇和島中学校・第一高等学校を経て昭和3年東京帝国大学政治科を卒業、文官高等試験に合格して内務省に入った。京都府属を振り出しに和歌山県・北海道庁・兵庫県各警察部に勤務、警視庁警務課長、内務省警保局課長を経て、山形県警察部長、警視庁刑事部長、千葉県警察部長、軍需省勤務、警視庁警務部長、大阪府警察局長を歴任し、21年6月香川県知事に就任した。
官選知事として終戦混乱期の処理と南海大地震の復旧に当たり、22年4月最初の公選知事に当選して引き続き香川県政を担当、香川大学の設置などに尽力した。任期4年を待たぬうちに25年同県知事を辞職し、首相吉田茂の要請を受け警察予備隊本部長官に就任。27年8月保安庁次長、次いで29年7月、防衛庁次官になった。 32年6月、参議院議員香川地方区補選で当選。34年6月の第5回参議院議員選挙に際し愛媛地方区に移り、40年7月、46年6月と3期連続当選して20年間国会議員を務めた。その間,自民党治安対策特別委員会副委員長、同国防部長、参議院地方行政委員長などを歴任。39年7月第三次池田勇人内閣で国務大臣行政管理庁長官・北海道開発庁長官に就任、続いて第一次佐藤栄作内閣でも留任した。
自民党内では〝防衛の増原〟で知られ、防衛・安保問題をライフワークにして46年7月第三次佐藤改造内閣で防衛庁長官に就任したが、雫石上空での自衛隊機と全日空機の衝突事故の責任を取って1か月余りで辞任した。47年7月、第一次田中角栄内閣で再び防衛庁長官になり第二次田中内閣でも留任したが、48年5月天皇への内奏問題の責任を負って辞任した。
「和をもって貴しとなす」を座右銘とした清廉潔白な人柄は〝国政の場にふさわしい議員〟として慕われたが、昭和52年7月の参院改選を機に議員を引退した。勲一等旭日大綬章を受章し、53年には県功労賞を受けた。昭和60年10月11日、82歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
今松 治郎・郷土の先人 16
今松 治郎 (いままつ じろう)
明治31年~昭和42年(1898~1967)内務官僚、和歌山・静岡県知事、戦後衆議院議員になり、岸内閣の初代総務長官や自民党全国組織委員長を歴任した。明治31年7月25日、北宇和郡二名村波岡(現宇和島市三間町)で今松佐一郎の次男に生まれた。宇和島中学校・第一高等学校を経て、大正8年東京帝国大学法科に入学。11年同大学卒業後高等文官行政科試験に合格した。
大正12年北海道庁警視・保安課長を振り出しに、以後和歌山・宮崎・埼玉・京都の各府県に勤務して昭和9年宮城県学務部長、10年群馬県警察部長、11年警視庁官房主事、12年茨城県総務部長、14年内務省振興課長、15年北海道土木部長を歴任して、昭和15年10月和歌山県知事に就任した。16年10月には東条英機内閣の下で内務省讐保局長になり,太平洋戦争下の翼賛選挙を指揮した。次いで、18年7月静岡県知事に就任、食糧増産や東海地方の大震災復旧など戦時下の県政に尽力した。
昭和20年4月知事を辞して郷里に疎開したが、21年公職追放。追放中東京で弁護士を開業、郷土の上京青年の世話や文化人との交流を深めた。26年追放解除、27年10月の第25回衆議院議員選挙に第3区自民党公認で立候補して最高点で当選した。当選後自由党副幹事長になったが、28年4月の選挙で落選、30年2月の第27回選挙で日本民主党公認で当選、国会に返り咲き少数与党の副国会対策委員長として砂田重政を助け,保守合同後は砂田全国組織委員長の下でその補佐を務めた。32年2月岸信介内閣が誕生すると、総理府の初代総務長官に就任した。以後33年5月、35年11月、38年11月の衆議院議員選挙に連続当選し、全国組織委員長・北海道開発特別委員長・愛媛県連会長など自民党の要職を歴任した。実務型で誠実円満な政治家として知られ、国道56号の全面改良、宇和島港の重要港湾指定など郷土のためにも尽くした。
昭和42年1月の第31回総選挙で予想に反して落選、このころから健康がすぐれず、42年10月14日69歳で没した。 45年4月,三間町役場の庭に胸像が建てられた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)
小西 左金吾・郷土の先人 15
小西 左金吾 (こにし さきんご)
明治12年~昭和16年(1879~1941)愛媛県における真珠貝養殖、並びに真珠養殖業の創始者である。
明治12年10月11日、北宇和郡岩松村(現北宇和郡津島町岩松)で、岩松の大地主小西家の分家にて、父久太郎、母マヨの長男として生まれる。幼少にして父と死別し、母との孤独な生活を続けた。長じて宇和島中学校に入学したが、さらに東京府立開成中学校に転じ、以後、熊本第五高等学校を終えて京都の同志社に学んだ。
明治39年南宇和郡内海村長崎(現御荘町長崎)を永住の地と定め、第二十九銀行平城支店長として金融界に身を投じ、業界発展のため尽力した。同年夏のころ集落の若者達が地先の湾内で採取したあこや貝の一つから輝く小さい玉を発見し、左金吾に見せた。この珠をいくらか集めて上京の機会に銀座の宝石商に持参して鑑定を受けたところ、これが世にいう天然の真珠であることがわかると同時に、莫大な値段で買い取られた。このことがあってから左金吾は、真珠を人工的に生産することを思いついた。真珠王として名高い御木本幸吉が、三重県神明村で真珠養殖の研究を始めたのが明治23年。その後26年に半円真珠を、38年に真円真珠を生産することに成功し,翌40年には元農商務省技師の西川藤吉によって真珠生産の原理が解明された。左金吾は明治40年5月真珠の研究に取り組んだが、当初は三重県から海女を数名雇い入れて海底のあこや貝を採取し、この中から天然の真珠を捜す程度のことであった。このため海女借用を県に願い出たため衆目を集めることとなり、われ先にあこや貝を採取し始めた。そのため県は、資源保護の観点から県令を発して、その採取を禁止したほどであった。
明治42年左金吾は銀行の径営不振と豪放な事業方針のため、他から思わぬ禍を受けて平城支店長を辞任した。この年、平山の庄屋実藤道久、御荘村和口の中尾定吉と3人で「小西真珠養殖所」を開設し、同年11月内海浦漁業組合と真珠養殖漁業権の貸借契約を結び平山で真珠養殖に本格的に取り組んだ。初めは半円真珠の研究からスタートしたが、事業は容易には進まなかった。左金吾は、大正2年西川藤吉の高弟であった藤田昌世を地元に招へいして指導を受げたりして事業に励んだが、事業経営不振のため解散した。そしで同年4月新たに予土水産を設立した。大正2年に施術したものを2年後の4年に浜揚げしたところ真円真珠が確実に生産され、ここに本県における真珠養殖は一応の成功をみることができた。これがピース式と呼ばれる養殖方法で、三重県に先がけて本県で初めて真円真珠の生産方式が確立されたのである。
大正9年1月、南海物産株式会社と合併し社名を予土真珠株式会社とし事業の規模拡大を図ったが、同年8月、同社養殖場の一つであった高知県宿毛一円は大洪水となり同社の養殖筏はすべて流失したため養殖不能となり会社は倒産した。ここに小西左金吾の夢は消え、近在稀れな家屋まで人手に渡り宇治山田に移住し、昭和16年9月27日61歳でこの世を去った。
昭和10年には、大月菊男によって宇和島市坂下津、三浦湾においても真珠の生産が開始され、良質の真珠が採れるところから、宇和海の真珠の名声が次第に高まった。その後、真珠生産に従事している漁業者の技術革新と品質向上へのたゆまざる努力によって、宇和海の真珠生産は昭和42年、我が国で3位の実績をあげ、昭和53年には先進地の三重県を上まわる11,000kgの生産高を記録して、日本一の座に輝くとともに、世界的に飛躍した。
リアス式海岸による深い入り江に、波静かにさざめく宇和海。そこは真珠養殖地として最も恵まれた自然環境にある。この自然の恵みをうまく活かし、母貝を育て、核入れをほどこして養生させた後に沖へ出す。優れた技術と緻密な作業、こまやかな心配りで宇和海の真珠は生み出されている。また、万物の母とされる海は、真珠をやさしく育む母でもある。そして、この美しく静かな宇和海に磨かれる真珠だからこそ、その光彩はひときわ美しく、世界の人々を魅了して止まない。宇和海の恵まれた自然にいだかれて、真珠は「月のしずく」「人魚の涙」などと称えられるジュエリーへと育つのである。小西の真珠産業への異常なまでの意気と熱が、今日の愛媛の真珠生産全国一に導いたと言えよう。
(参考・宇和島市ホームページ、愛媛県生涯学習センター資料など)
山村 豊次郎・郷土の先人 14
山 村 豊次郎 (やまむら とよじろう)
明治2年~昭和13年(1869~1938)初代宇和島市長・衆議院議員。明治2年3月16日、宇和島城下笹町(現宇和島市)で士族村松喜久蔵の次男に生まれた。後に政敵として争う、国民党一憲政会代議士村松恒一郎は兄である。
明治3年、父が士族株を買って別家させ、山村を名乗った。鶴島小学校卒業後、末広静の静古園、加藤自謙の継志館などに学んだが、家が貧しく宇和島裁判所給仕や西宇和郡役所臨時雇などで家計を助けた。政治に関心を示し始めたのは代言人・坂義三の事務を手伝ってからで、大同団結運動に参加して23年の第1回衆議院議員選挙では末広鉄腸の運動員として活躍。同年末広のつてで大阪の関西日報に入社、次いで東京の新聞国民に移った。 24年日本法律学校(現日本大学)に入学、代議士牧野純蔵の書生に住み込み苦学した。
明治28年弁護士試験に合格して宇和島に帰り、法律事務所を開いた。自由党に入党し、32年宇和島町会議員、33年北宇和郡会議員に当選。36年郡会議長に選ばれた。明治39年7月重岡薫五郎死去に伴う衆議院補欠選挙に政友会から立候補して当選したが、一家の扶養の義務令兄村松恒一郎との政争の回避などを理由に、41年5月の選挙では出馬を辞退、以後、代議士になることを断念して地方政治に専念した。
明治44年、宇和島運輸会社取締役、大正2年宇和水電取締役、5年鶴島漁業組合連合会長などを歴任して、9年宇和島町長に推されて就任した。政治力で市制実施を進めて、大正11年5月初代市長に就任した。市庁舎の建設,港湾改修,水道敷設などを推進したが、15年1月市会議員選挙における市吏員の失態の責任を負い辞職した。山村が去った後、市当局と市会の対立や党派抗争で市政が渋滞したので、昭和2年3月再び市長に返り咲いたが、懸案の須賀川付替工事で反対派が市長不信任案を可決したので、5年10月任期途中で市長を退いた。
公職を離れると同時に弁護士を再開業し、宇和島鉄道会社社長・南予時事新聞社社長・宇和島運輸取締役を兼ねた。昭和7年2月の第18回衆議院議員選挙の候補に、政友会から懇請された。民政党代議士村松恒一郎との競争になるため熟慮した後立ち,当選した。11年2月の衆議院議員選挙でも再選され,宇和島鉄道の国鉄移管などを斡旋した。昭和13年9月13日、69歳で没し宇和島光国寺に葬られた。昭和9年、和霊公園内に豊次郎の頌徳碑が建立された。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)
中臣 次郎・郷土の先人 13
中臣 次郎 (なかおみ じろう)
天保2年~明治30年(1831~1897)果樹園芸功労者。本県最初の夏ミカン導入者。宇和郡須賀通り(現宇和島市)に生まれる。明治12年山口県萩地方より、夏ミカンの苗木数本をもとめて庭園(宇和島の藤江)に植栽したのがはじめ。その後、宇和島の大浦地区に広がり、さらに北宇和郡、西宇和郡に産地化か進んだ。
当時、苗木1本1円50銭。米が1升10銭の時代に、非常に思い切った選択であった。これは南予地方の崖の農地の悪条件を逆手に取った、逆転の発想とも言える。山の斜面に降り注ぐ太陽光、そして海からの太陽の反射光、段々畑からの放射光という「3つの太陽」は、果樹の栽培にはこれ以上ない好条件だったのだ。しかし、みかんは他の果樹に比べ地表に浅く根が張るため、干ばつには弱い作物であった。水不足の問題は重くのしかかった。初期におけるみかんの導入は、比較的上層の農家によってなされた。彼らは自らが山野を開墾、水不足という逃れられない条件をわずかなため池で凌ぎながら、山の斜面を上へ上へと農地を拡げていった。そして有利な商品作物である果樹栽培の骨組みを作ったのである。夏ミカンは、県下各地の宅地、庭園等に自家用として広く植えられた。
(参考・「愛媛県生涯学習センター資料」「地域の礎」など)
薬師神 岩太郎・郷土の先人 12
薬師神 岩太郎 (やくしじ いわたろう)
明治22年~昭和28年(1889~1953)県農業会長・県会議員・衆議院議員。
明治22年2月26日、北宇和郡来村(現宇和島市)で生まれた。独学して青年団活動に従事、森岡天涯の雑誌「南予之青年」の編集を手伝った。大正14年~昭和5年宇和島市会議員、6年2月~9年5月来村の村長を務めて退任後再び宇和島市会議員になって22年まで勤続、17年には市会議長に選ばれた。昭和10年9月県会議員に選ばれ,14年9月再選されて21年4月まで在職した。
戦後,21年4月の第22回衆議院議員選挙に白由党公認で立候補当選したが,わずか1年在職しただけで22年4月の第23回選挙に臨み落選した。同24年1月第24回総選挙で再選,2期務めた。戦前から県農業会の役員であったが,戦後の公職追放で会長岡本馬太郎らが辞職したので、22年6月会長に推され新しい農業協同組合の編成に当たった。南予海岸部の段々畑の宿命的労苦の救済を生涯の念願とし、急傾斜地帯農業振興法の成立に心血を注いだ。27年に立法化したが,工事の完成を見ることなく昭和28年8月27日、64歳で没した。
昭和39年11月宇和島市天赦園グランドに銅像が建てられた。現在、その場所で市民が朝のラジオ体操を行っている。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)
兵頭 賢一・郷土の先人 11
兵頭 賢一 (ひょうどう けんいち)
明治5年~昭和25年(1872~1950)教育者、地方史研究家。明治5年、北宇和郡岩松村(現宇和島市津島町)生まれ。愛媛県師範学校卒業。
大正12年、51歳で宇和島第二小学校長を最後に教育界を退き,伊達図書館長をつとめる。旧宇和島藩主伊達家に伝わる古文書・記録を巾心に宇和島藩政史の研究に没頭、書き遺したものはノートにして千冊近い。だが、戦火でそのほとんどを失った。宇和島史談会の育成につとめ、地方史研究に多くの業績を残した。宇和島青年団長,南予文化協会、宇和島史談会の幹部として活躍した。著書に『北宇和郡誌』『南予遺香』『宇和島藩における尊皇思想の発達』『先哲叢書・伊達宗城』などがある。収入の大部分を書物の購入につぎ込むという蔵書家で、そのため生涯自分の家を持つことができなかったと。生まれながらの書き魔で、最晩年「書くことを止めると、暮らし方がない」とこぼしたそうである。文部大臣選奨 愛媛県教育功労者 昭和25年3月21日、78歳で死去。墓所は、岩松臨江寺。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)
堀部 彦次郎・郷土の先人 10
堀部 彦次郎 (ほりべ ひこじろう)
万延元年~昭和5年(1860~1930)県会議員・衆議院議員。実業家として南予地方の運輸・産業開発の中心人物であった。
万延元年3月18日、宇和郡宮下村(現宇和島市)の庄屋で醤油業を営む堀部行篤の次男に生まれた。明治9年南予変則中学校(現宇和島東高校)に学び、13年豊前中津中学校に転学、その後大阪・東京に遊学した。
明治19年26歳で県会議員に当選、改進党系の新鋭として活躍したが、やがて自由党に転じ明治25年2月第2回衆議院議員選挙第6区で末広重恭を破って当選した。しかし1期限りで政界から退き、31年1月宇和島運輸会社の社長に就任。以後、死去するまで30余年間その任にあり、大阪商船会社の圧迫にも対抗して南予海運界を支配した。
大正4年には宇和島鉄道会社の社長となり、12年宇和島一近永間の軽便鉄道を吉野生まで延長した。8年宇和島自動車会社の創立に参与、13年宇和島銀行頭取となり、その他宇和島土地会社などの社長を兼ね、宇和島商工会(現宇和島商工会議所)が結成されるとその初代会長に推された。宇和島地方実業界のあらゆる方面に関係して指導力を発揮、「社長さんといえば堀部のこと」と言われるほどの実力者であった。昭和5年8月30日,70歳で没し、宇和島西江寺に葬られた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
大和田 建樹・郷土の先人 9
大和田 建樹
大和田 建樹(おおわだ たけき 安政4年4月29日(1857年5月22日) ~明治43年(1910年)10月1日)は、詩人・作詞家・国文学者・東京高等師範学校(現・筑波大学)教授。『鉄道唱歌』・『故郷の空』・『青葉の笛』などの作詞者として知られている。安政4(1857)年、宇和島藩士・大和田水雲の長男として生まれた。本名は晴太郎。生家は宇和島城の南、城山登山口の前に残されていたが、昭和46(1971)年の秋、大和田家菩提寺の龍華山等覚寺境内に移築保存された。平成13(2001)年に諸般の事情から、解体・保存された。現在のところ、用地や財政上の問題、また利活用のあり方などから、再建の目途は立っていない。
幼少の頃から神童として知られ、若干14歳で藩公に召されて四書を請進したと言われている。広島(広島外国語学校)で英語を学び、明治12(1879)年に上京して、東京大学古典講習科の講師、明治19(1886)年に高等師範学校(後の東京教育大学。現筑波大学)教授に就任するが、後に退職して多彩な作家活動を始め、数々の国文学に関する著作の他、作歌、作詞、紀行文、謡曲の註釈、辞典の編集まで幅広く手がけた。この間、明治女学校、青山女学院や跡見女学校などの女学校や、早稲田中学校などの講師を歴任する。
「汽笛一声 新橋を はやわが汽車は 離れたり」で始まる鉄道唱歌(東海道編・関西・参宮・南海編ほか)はあまりにも有名である。他に、「散歩唱歌」「故郷の空」「青葉の笛」などの小学唱歌があり、明治41(1908)年に「伊予鉄道唱歌」を作るなど、歌詩は実に1,300を超える。主要著作には、『歌まなび』(1901)、『日本大辞典』(1896)や『大和田建樹歌集』(1912)などがある。
明治43年(1910)10月1日、作詞のため病床を移していた東京新宿・牛込の法身寺で死去。享年54歳。東京新橋駅構内に「鉄道唱歌の碑」が、宇和島駅前に「大和田建樹詩碑」が建立されている。墓所は、東京・青山墓地。
経歴
安政4(1857)年4月29日 愛媛県宇和島市の藩士の家に生まれる。
明治2(1869)年 明倫館の上級校である培寮に入学。
明治5(1872)年 学制制定に伴い、宇和島県学校青年塾の教師門司小助業に就く。
明治9(1876)年 広島外国語学校に入学。
明治12(1879)年 学校を退学し、上京。
明治13(1880)年 交詢社の書記となる。
明治14(1881)年 東京大学の書記として博物館づとめになる。
明治17(1884)年 東京大学古典講習課講師となる。
明治19(1886)年 東京高等師範学校教授となる。
明治24(1891)年 教職を辞し、文筆家となる。
明治25(1892)年 明治女学校に講師として出講。
明治33(1900)年 『鉄道唱歌』全5部作発表。
明治42(1909)年秋、脊椎炎にかかり下半身不随となる。
明治43(1910)年3月、「海軍軍歌」の制作を海軍教育本部より嘱託され、9月に8曲分書き上げるも体調を崩し、10月1日死去。享年54。
主な作品
唱歌
「舟あそび」(曲:奥好義)
「故郷の空」(曲:スコットランド民謡)
「暁起」(曲:田中銀之助)
「あわれ少女」(曲:フォスター)
「四条畷」
「夢の外」
地理教育 鉄道唱歌 (作曲:上真行・多梅稚・田村虎蔵・納所弁次郎・吉田信太) 明治33年
地理教育 世界唱歌 (作曲:納所弁次郎・多梅稚・山田源一郎・田村虎蔵) 明治33年
海事教育 航海唱歌 (作曲:田村虎蔵・多梅稚・小山作之助・納所弁次郎) 明治33年
明治文典唱歌 (作曲:小山作之助) 明治34年
国民教育 忠勇唱歌1 楠公父子 (作曲:本元子=小山作之助) 明治34年
国民教育 忠勇唱歌2 四十七士 (作曲:牛銀子) 明治34年
国民教育 忠勇唱歌3 豊太閤 (作曲:多梅稚) 明治34年
国民教育 忠勇唱歌4 菅公 (作曲:多梅稚) 明治34年
国民教育 忠勇唱歌5 牛若丸 (作曲:納所弁次郎) 明治34年
春夏秋冬 花鳥唱歌 (作曲:本元子) 明治34年
春夏秋冬 散歩唱歌 (作曲:多梅稚) 明治34年
東京府民 公徳唱歌 (作曲:小山作之助) 明治35年
満韓鉄道唱歌 (作曲:天谷秀) 明治36年
戦争唱歌 (作曲:田村虎蔵) 明治36年
戦争地理 満州唱歌 (作曲:田村虎蔵) 明治37年
日露開戦唱歌 明治37年
国民唱歌 日本海軍 (作曲:小山作之助) 明治37年
家庭教育 運動唱歌 (作曲:田村虎蔵) 明治38年
地理歴史教育 東京名所唱歌 (作曲:小山作之助) 明治40年
地理教育 物産唱歌 (作曲:田村虎蔵) 明治40年
地理教育 東洋一週唱歌 (作曲:田村虎蔵) 明治41年
修身唱歌 二宮金次郎 (作曲:永井孝次) 明治41年
詔書 勤倹の歌 (作曲:小松耕輔) 明治41年
堺市水道唱歌 (作曲:田村虎蔵) 明治43年
家庭運動唱歌 摘草 (作曲:田村虎蔵) 明治43年
軍歌
「日本陸軍」(曲:"開成館"深澤登代吉)
「日本海軍」(曲:小山作之助)
「黄海海戦」(「海軍軍歌」収録。曲:瀬戸口藤吉)
「威海衛襲撃」(同上)
「閉塞隊」(同上)
「日本海海戦」(同上)
「日本海夜戦」(同上)
「第六潜水艇の遭難」(同上)
「国旗軍艦旗」(同上)
「艦船勤務」(同上)
旅順陥落 祝捷軍歌 (作曲:田村虎蔵) 明治37年
日露軍歌 (作曲:田村虎蔵) 明治37年
日露軍歌第弐集・旅順口大海戦 (作曲:田村虎蔵) 明治37年
征露軍歌 橘大佐 (作曲:納所弁次郎) 明治37年
我が赤十字 (作曲:上真行) 明治37年 「戦捷軍歌」収録
上記のほか、「海軍軍歌」に収められている「楠公父子」も大和田の作詞(作曲:瀬戸口藤吉)という説があるが、それを裏付ける資料はない。
その他
「雲井の曲」(曲:宮城道雄)
「埼玉県立浦和高等学校校歌」
「跡見学園女子大学校歌」
「雙葉学園 (四谷・田園調布・横浜・静岡・福岡) 校歌」
大和田は、雙葉高等女学校(現在の四谷雙葉)で教鞭をとり、源氏物語や和歌を教えていた。また、札幌農学校(現北海道大学)校歌である「永遠の幸」(有島武郎作歌)の校閲も行っている。
エピソード
大和田は速筆として知られ、国文学・随筆・紀行文・詩歌において多くの作品を残した。その総数は、97種150冊といわれている。また、門人も500人を有していた。鐵道唱歌は企画者である市田元蔵に伴い、実際に取材旅行を行い作られた作品であり、その様子は「車窓日記」として残されている。
(参考・ウィキペディアなど)
穂積 陳重・郷土の先人 8
穂積 陳重 (ほづみ のぶしげ 安政2(1855)年 ~ 大正15(1926)年は、宇和島市出身の法学者。日本初の法学博士の一人。東京帝国大学法学部長。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。貴族院議員(勅選)。男爵。枢密院議長。勲一等旭日桐花大綬章。
穂積家は宇和島藩伊達氏が仙台より分家する以前からの、伊達家譜第の家臣である。饒速日命を祖に持つと言われる。祖父重麿は、宇和島藩に思想としての国学を導入した人物。父重樹は長子として父の学問を継ぎ、明治維新後藩校に国学の教科が設けられるとその教授となり、また国学の私塾も営んだ。兄の重頴は、第一国立銀行頭取。憲法学者穂積八束は弟。長男の穂積重遠は、「日本家族法の父」と言われ、東大教授・法学部長、最高裁判事を歴任。妻歌子は、渋沢栄一の長女。孫の重行は、大東文化大学学長(専攻は近代イギリス史)。
陳重は、藩校であった明倫館に学んだ後、16歳で藩の具進生として上京、大学南校(東京大学の前身)に入学、明治9年には文部省留学生としてイギリス、ドイツに渡り、法律学を学んだ。明治14年に帰国、27歳のとき年東京大学法学部講師、明治15年から大正元年まで東京大学並びにそれが改組あるいは改称された東京帝国大学(明治19年~)の教授・法学部長に就任。梅謙次郎、富井政章とともに現行民法典の起草にあたり、中心的な役割を果たす。商法法典調査会の委員を務めた。また、英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人でもある。
イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィンの進化論、ハーバート・スペンサーの社会進化論などについて、幅広い研究をした。その後、ドイツへ転学し、ハインリヒ・デルンブルヒに師事してドイツ法を研究し、サヴィニーに触発され、日本民法へのパンデクテン法体系の導入のきっかけを作った。
穂積の学説は、法実証主義・科学主義・ドイツ法学の立場に立つもので、民法典論争では、富井と共に延期派にくみし、自然法論・フランス法学の立場に立ち断行派にくみする梅と対立した。
刑法では、ロンブローゾの生来犯罪人説を研究し、新派刑法理論を日本に紹介した。進化論的立場から、天賦人権論を厳しく批判するとともに、日本古来の習俗も研究し、法律もまた生物や社会と同様に進化するものと考え、『法律進化論』を完成させ出版することを企図していたが、未完のままに終わっている。
大日本帝国憲法施行直後の明治24(1891)年、来日中のロシア皇太子を一巡査が襲撃したいわゆる大津事件が勃発した時、郷里宇和島の大先輩で当時大審院長であった児島惟謙から意見を求められたのに対し、「外国でも敗戦国でない限り、自国の法律を曲げた例はない」「政府と対決しても貴殿の主張が勝つ」と言って激励、惟謙から謝電が送られた話は有名である。
死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それならば、改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川に掛かる橋の名前としてその名が残っている。
大正10年に故郷宇和島町と隣接する八幡村の合併協議が頓挫した折、反対派を東京の私邸に招き、懇切丁寧に合併の必要性を説き、翻意させて合併実現に貢献した。
大正11年に皇太子宇和島市行啓の折同行し、宇和島城に於ける茶会の折、皇太子の前の席には県知事を配すると言う県の方針に対し、英国の例を引用し「殿下には宇和島市民が敬意を表すべき」との理由から市長を配すると主張、実現した。
安政2年7月11日(1855年8月23日) - 伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)に宇和島藩家老で国学者の穗積重樹の次男として生まれる。
明治7(1874)年 - 開成学校に転学
明治12(1879)年 - 同校卒業 バリスター(法廷弁護士)の称号を受ける。
明治13(1880)年 - ドイツに移りベルリン大学入学
明治14(1881)年 - 同校卒業 帰国。東京大学法学部講師に就任
明治15(1882)年 - 東京大学教授兼法学部長に就任。その後、民法のみならず比較法学・法史学・法哲学等の法律学の幅広い分野で我が国の先駆者として開拓者として活躍。
明治18(1885)年 - 増島六一郎、菊池武夫らとともに英吉利法律学校(中央大学の前身)を創立。
明治21年(1888)年 - 日本国最初の法学博士の学位取得
明治23(1890)年 - 貴族院議員に勅撰される(- 明治25年2月まで)
明治24(1891)年 - 大津事件において同郷の大審院長児島惟謙を激励し犯人死刑論を非難。民法典論争において延期派に与し、旧民法を停止にいたらせる。
明治26(1893)年 - 富井政章、梅謙次郎とともに法典調査会主査となり、民法・戸籍法などを編纂。 帝国大学法科大学長に就任。
明治29(1896)年 - 民法典公布(1898年(明治31年)施行)。東京学士会院会員となる。
大正元(1912)年 - 大学退職
大正4(1915)年12月1日 - 男爵叙爵
大正5(1916)年 - 枢密顧問官就任
大正6年(1917)年 - 帝国学士院院長に就任
大正11年(1922)年11月20日午後、小石川植物園で開かれた学士院のアルベルト・アインシュタイン夫妻の公式歓迎会に長井長義夫妻らとともに出席。
大正14(1925)年 - 枢密院議長就任。大正15年(1926)年4月8日 - 逝去(72歳)
(参考・ウィキペディア等)
児島惟謙・郷土の先人 7
児 島 惟 謙
児島惟謙は天保8(1837)年2月1日に宇和島藩(今の愛媛県)の藩士の家に生まれた。父母が離縁したため、幼少時は苦労の内に育った。しかし剣の腕が立ち、長じて藩に役目を得、やがて幕末という時代の中で志士として活動するようになった。幼名は雅次郎、長じて五郎兵衛、あるいは謙蔵とも称した。「児島惟謙」は脱藩を機に用い始めた仮の名で、児島はこれを終生用いた。名前は「これかた」以外にも「いけん」、「これかね」などとも呼ばれる。号は天赦、字は有終。
尊王開国の思想を持ち、慶応元(1865)年に長崎に赴いて坂本龍馬、五代友厚らと親交を結んだ。慶応3(1867)年に脱藩して京都に潜伏し、勤王派として活動した。維新後、役人の道を歩み始めた惟謙は、1868年に出仕し、新潟県御用掛、品川県少参事を経て、1870年12月に司法省に入省。名古屋裁判所長、長崎控訴裁判所長などを経て1883年に大阪控訴院長となり、1886年には関西法律学校(関西大学の前身)創立を賛助し、名誉校員となった。
明治24(1891)年、惟謙は大審院長の座にまで昇りつめる。大審院というのは当時最も上位の裁判所であり、現在の最高裁と同じように終審を担当するほか、旧刑法で定められていた「皇族に対する罪」などを裁いていた。惟謙が大審院長に就任して数日後、日本を揺るがす大事件が発生した。いわゆる大津事件である。
大津事件が発生したのは、明治24年の5月。来日中であったロシアの皇太子・ニコライが滋賀県の大津で、警備中の巡査に斬り付けられて負傷したのである。当時の日本人はこの事件に大いに驚いた。パニック状態に陥ったと言えよう。ロシアといえば大国、その大国の皇子が日本で負傷、しかも襲われて傷ついたとあらばロシアが怒って攻めてくるかもしれない。そんな恐怖感が当時の国民の間に沸き起こったであろう。皇太子ニコライに対して、国内から大量の見舞い・謝罪の電報や手紙が届けられた。死んで詫びるという女性まで現れ、実際に自決している。日本政府にとって何よりの問題は、事件を起こした張本人、巡査・津田三蔵の処遇であった。
当時の日本とロシアは、微妙な関係であった。ロシアの南下政策をめぐり、二国の緊張は深まりつつあった。政府としては、処理を間違えば大変な事態に発展するかもしれないという危機感があった。そこで、何としても問題の処理を間違えてはならない、犯人である津田を死刑にしたいという意向を持つに至った。だが、津田を死刑にするということは難しい状況だった。ニコライの命に別状はなく軽傷であった。法に照らし合わせれば、謀殺(殺人)未遂として扱われるべきで、死刑に相当する罪ではなかった。そこで政府の要人たちは、一計を案じた。旧刑法における「皇族に対する罪」の規定を、この事件に適用しようとしたのだ。しかし、この「皇族に対する罪」とは日本の皇族を対象にしたもので、外国の王族や皇族にはあてはまらない。しかし政府は横車を押し、本来ならば下級審で審判されるはずだったこの事件を、「皇族に対する罪」を裁くものと同等に扱い大審院へと移送した。この困難な事件が起きたときに大審院長であったのが児島惟謙だった。
三権分立は、近代国家における重要なシステムの一つだ。国家に属する三つの大きな権力の独立性を確保し、互いに影響させあうことで権力の暴走を防ぐというものである。三つの権力とは、司法(裁判所)、立法(国会)、行政(内閣)だ。大津事件では、事件を大審院のものとした時点で行政による司法への干渉であった。これは、近代国家としてやってはならぬことだった。政府は司法に対してさらに圧力をかけた。「皇族に対する罪」を適用して死刑にせよという圧力であった。この圧力に、惟謙は抵抗した。近代国家の要件とされている法治主義、それを曲げるようなことがあれば逆に諸外国から軽んじられる。法に基づいて容疑者を裁いたなら、ロシアも必ず理解するはずであると主張したのである。
惟謙は事件を担当する裁判官のもとに赴き、政府の圧力に屈しないよう説得して回ったという。その結果、大審院は津田に対して通常の謀殺未遂罪を適用し、無期懲役とする判決を下した。惟謙の考えた通り、この判決をロシアが非難することはなかった。
大津事件において、惟謙は司法権の独立を保ったとして讃えられている。だが、惟謙の取った行動に問題がなかったわけではない。惟謙は、政府の圧力に直面する裁判官たちを説得して回った。大審院長によるこの行為は、裁判官の独自の判断を縛るものとも言える。本来許されるものではない。また、事件に「皇族に対する罪」を適用しない以上、大審院で裁判を行うべきではなかった。しかし、そもそも国家権力のあり方そのものが茫洋としていた時代だったのである。
そのような時代にあって、惟謙が司法権の独立を確固として認識し、政府の干渉を防ぎ切ったことは紛れもない事実である。事件は法治主義というものが人々に認識され、議論される契機ともなった。大津事件とそれをめぐる惟謙の働きによって、日本という近代国家が少年期から青年期へと移行したと言えよう。
惟謙は大津事件の翌年、大審院長を辞職した。大審院の判事が花札賭博を行っていたという疑惑が持ち上がり、その責任を取った。惟謙自身は賭博に関わっていなかったとされたのだが。疑惑の周囲には、政府の報復という意図が渦巻いていたのかも知れない。その後の惟謙は代議士などを務め、明治41年7月1日に亡くなった。
(参考・ウィキペディア・宇和島市ホームページ等)
中野逍遙・郷土の先人 6
中野逍遙
中野 逍遥(なかの しょうよう、慶応3年(1867) - 明治27年(1894))は、宇和島市賀古町に生まれる。漢詩人。本名は重太郎。字(あざな)は威卿。別号に狂骨子など。
南予中学、大学予備門(後の一高)より東京大学漢文科に進学。大学同窓に夏目漱石、正岡子規らがいた。明治27年(1894)、同科第一回の卒業生となる。在学中は佐佐木信綱,高橋作衛らと親交があった。卒業後は研究科に進み《支那文学史》を起草(未完)する一方,田岡嶺雲らと雑誌《東亜説林》を創刊し活躍を期待されたが,同年11月28歳で病没した。享年28。墓は妙典寺前の光圀寺、神田川のせせらぎに近く建立され、墓誌は恩師重野安繹の撰文。法号、俊聴院素朴偉重居士。
その死を惜しんだ宮本正貫・小柳司気太らが中学・大学時代10年間の漢詩等を集め、一周忌に「逍遥遺稿」正・外の二編を出版した。巻末雑録には大和田建樹・正岡子規・佐々木信綱らの追悼文を載せた。逍遙の漢詩に影響を与えたものとして唐の杜甫・宋の邵康節・唐の韓握の艶詩、さらにドイツの古典主義詩人シラーや哲学者ショーペンハウア等が指摘されている。
逍遙は自らの詩に「狂残痴詩」なる題名をつけるなどして、情熱・憂愁・孤独感など純粋性・青春性・恋愛感情を奔放に表現した。制約の多い漢詩に恋愛感情を自由奔放に歌いこむ詩風は、島崎藤村、吉井勇らにも影響を与えている。彼の浪漫詩人としての資質は「文学界」に拠った北村透谷・島崎藤村をもしのぐとも言われている。詩人日夏耿之介は「明治大正詩史」で「中野逍遙が(明治)二〇年代の浪漫的春愁を四角な漢詩に託して、却って新体詩以上の詩的エフェクトを示した」と述べている。
逍遙が「人間第一の花、唯當ニ南氏ヲ数フベシ」(「狂残痴詩」其ノ四)また「南氏淳ナリ。南君美ナリ。以テ生ヲ託スベク、以テ死ヲ許スベシ」(「南風涼及ビ磯馴松」)と詠んでいる「南氏・南君」こそ彼にプラトニックにして激しき情熱を吐露せしめた南条貞子であった。彼女は館林の素封家の令嬢で佐々木信綱の竹柏園の門下生であった。逍遙は「思君十首」「道情七首」「秋怨十絶」など切々たる思慕の情を詠んでいるが、彼女には届かず、片思いのまま世を去ってしまった。
子規は追悼文の中で「逍遙子は多情多恨の人なり」と述べ追悼句を詠んでいる。
いたづらに牡丹の花の崩れけり 子規
藤村は「若菜集」に逍遙を悼む「哀歌」を収めているし、大和田建樹・佐々木信綱らも追悼の和歌を寄せている。和霊公園に、下記の詩の碑がある。なお忌日は川崎宏によって「山茶花忌」と命名された。
(参考・宇和島市ホームページ等)
兵 頭 俊 朗・郷土の先人 5
兵 頭 俊 朗 (ひょうどう としろう)
1927-2006年 宇和島市に生まれる。中学校の教諭として定年まで勤めた。愛媛新聞社賞受賞 モチーフとして数多く描いた牛鬼は、古くから「魔除け」「厄払い」の鬼として南予地方に伝わっている。その牛鬼をユニークな目で、「牛鬼君シリーズ」という心癒やされる木版画にした。国内外で高い評価を受けている。遺族が、南予の各市町村に作品を寄贈された。
世界的に評価の高い「畦地梅太郎」と並び宇和島を代表する木版画家・兵頭俊朗(昭和2年-平成18年)は、子供のころの宇和島城の思い出を次のように語っている。「わたしの通っていた宇和島の第二小学校(現在の宇和島市立鶴島小学校)は城山の下にあり、校舎が城山に接するように建っていて、ごく狭い裏庭は城山に続いていましたのでよく登りました。城山には当時子供たちが『おさるさんまめ』と呼んでいた赤黒い木の実(イヌマキの実だと思われる。)がなっていた。それを食べるのです。先生に見つかるとしかられるのですが、急な斜面をよじ登ったものです。また、年に1回城山で肝試しの会がありました。確かボーイスカウトの行事だったと思います。桝形(ますがた)町の南予会館(今はなし)に集合し、夜、3人ぐらいずつ登るのです。どういうわけか、赤穂浪士討ち入りの夜(12月14日)と決まっていました。途中、井戸(通称『ちんちん井戸』)のそばの竹やぶに毛布をかぶった先生が隠れていて、『わしは浅野内匠頭(たくみのかみ)の亡霊じゃ。』と言って脅すのです。肝をつぶし逃げ帰る者もいました。本丸で待っている先生からハンカチか何かを受け取って帰ってくるのです。小学校5、6年生のころだったと思います。そのころはもちろん天守閣の中は見せてくれませんでした。いったい中はどうなっているのか、いろいろ想像したり、化け物が出るのかもしれないと思ったりしていました」と。
私は、宇東の同期H君が御荘の中学校で兵頭俊朗さんと同時期に勤務した関係で、20年ほど前にH君と宮ノ下のご自宅を訪ねた事がある。実は、私はその数年前に「べにばら画廊」で、兵頭さんの作品を15点購入していた。その時も、版画入りのご丁寧な礼状をいただいていた(写真➀)。その事を覚えていただいており歓待していただいた。
中学校を定年退職されて数年経った頃だったと思うが、穏やかな表情でお話しされた。その際、坂村真民の「念ずれば花開く」を描かれた(オリジナル・写真②)小色紙をいただいた。
生前お会いできお話しできた事は、大きな宝である。15点のうち8点は、兄弟や娘、甥、姪などに進呈した。我が家には、牛鬼君シリーズのうち2点(写真③④)と宇和島の風景を題材にした木版画が5点ある。どれも故郷を彷彿とさせる哀愁を帯びた味わいのある作品だ。きっと皆さんのお宅でも飾られていることだろう。
畦地 梅太郎・郷土の先人 4
畦地 梅太郎
畦地 梅太郎(あぜち うめたろう・明治34年 - 平成11年)は、宇和島市三間町の生まれで、昭和期に活躍した世界的な木版画家である。
山岳風景を題材とした木版画作品を多数発表し、「山の版画家」として知られる。画文集の出版や装丁、挿画などの分野でも活躍した。
当初油彩画家を志していたが、船員、石版印刷工などを経て、24歳の時に内閣印刷局に就職し、仕事の空き時間に職場にある材料で鉛版画を試みたことがきっかけで、版画の道へ進んだ。平塚運一、恩地孝四郎、前川千帆らに影響を受けた。
昭和12年夏に軽井沢へ出かけた際、浅間山に魅せられた。その後、山を制作の主題に定めて、山の風景を描いた作品を多数発表した。戦争中の満州への単身赴任などを経て、第二次世界大戦後は「山男」シリーズを発表していく。登山を趣味とする者なら、畦地の「山男」を知らない者はいないだろう。私も1枚所蔵している(「山のおそれ」50×40㌢写真➀)。30数年前に同窓の友人H君から贈られたものだ。我が家の宝となっており、いつも山仲間から羨望の眼差しを向けられる。
畦地は右手親指のけが、大やけどの後は、家族をテーマにした作品を多く制作した。
日本版画協会名誉会員 三間町名誉町民
愛媛新聞社賞受賞 愛媛県教育文化賞受賞
町田市名誉市民
- 明治34年12月28日 - 愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)に生まれる。
- 大正8年 - 愛媛県より上京。
- 昭和元年 - 内閣印刷局に入る。
- 昭和2年 - 日本創作版画協会第7回展に出品し入選。内閣印刷局辞職、版画家となる決心をする。平塚運一、恩地孝四郎に師事。
- 昭和6年 - 日本版画協会会員となる。
- 昭和19年 - 国画会会員となる(昭和46年に退会)。東北アジア文化振興会勤務のため単身赴任した満州国新京(現・長春)を題材とした版画集「満洲」を出版。
- 昭和24年 - 日本山岳協会会員となる。
- 昭和28年 - 第2回サンパウロ・ビエンナーレに日本代表として出品。
- 昭和31年 - 第4回スイス・ルガノ国際版画ビエンナーレに日本代表として出品。
- 昭和46年 - 「頂上の小屋」「涸沢の小屋」など5点が、宮内庁買い上げとなる。
- 昭和51年 - 日本版画協会名誉会員となる。
- 昭和59年 - 愛媛県教育文化賞・愛媛新聞賞受賞。
- 昭和60年 - 三間町名誉町民となる。
- 平成8年 - 町田市名誉市民となる。
- 平成11年 - 96歳で逝去。
- 平成15年 - 三間町(当時)に畦地梅太郎記念美術館がオープン。
三輪田 俊助・郷土の先人 3
三輪田俊助は、大正2年生れ 愛媛県宇和島市出身・在住の洋画家である。
水彩画家中西利雄氏と知り合い水彩画を始める。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)在学中の昭和13年、浜田浜雄氏、石井新三郎氏ら美術学校の仲間たちとグループ「絵画」を結成、当時としては前衛的なシュールレアリスム(超現実主義)作品を制作し、戦前の洋画史に一石を投じた。昭和12年制作の<風景>は、近年さまざまな展覧会に再三取り上げられている。
戦後は、郷里宇和島で中学校の教師をしながら制作活動に励み、昭和40年には、愛媛で特異なグループとなる「愛媛現代美術家集団(通称現美)」の結成に参加した。昭和60年まで在籍するが、他の既成画壇には一切属さず個展を重ねて来た。今日も意欲的かつ自然体で、抽象的表現の制作を続けている。
愛媛新聞社賞受賞 よんでん芸術文化賞受賞
高畠 華宵 郷土の先人 2
高畠 華宵
高畠 華宵(たかばたけ かしょう 明治20年 – 昭和41年)は宇和島市裡町生まれで、大正から昭和初期に活躍した画家だ。本名は、高畠幸吉。京都市立美術工芸学校日本画科卒業。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。
小さい頃から絵が好きで、姉妹とのおままごとなど、おっとりした遊びばかりしていたそうだ。15歳で大阪へ出て画家に弟子入りした後、京都美術学校、関西美術院で学んだ。明治39年に上京してからは職を転々として、苦しい生活を続けた。そのような中、津村順天堂(現 ツムラ)の広告を手掛けたことから運が上向き始めた。ツムラのサイトでは華宵のイラストを使ったバスクリンが見られる。手ぬぐいで隠したヌードのイラストは、当時としてはかなりセンセーショナルだったのではないか。
現在でも薬局で売っている中将湯、日本海上保険(現 日本興亜損害保険)、デパートなどの商業ポスター、『少女倶楽部』『少年倶楽部』『講談倶楽部』と活躍の場を広げ、華宵は次第に時代の寵児となった。
華宵は、正統な美術教育を受けながらも、日本画壇に属することがなく、画風上でも、 ライフスタイルの上でも、日本文化と西洋文化が交じり合う新しい時代の文化を体現してみせた。当時は印刷技術の進歩が著しく、大量に印刷される華宵美人や美少年は大衆のお茶の間に入り込み、かの「華宵好み」と呼ばれたスタイルは、人々の憧れの的となって、暗い封建社会からの脱皮を求めていた人々を 自由意識へと導いた。
栄光の日々
前述の通り、明治43年に「華宵」の名で描いた津村順天堂の「中将湯」広告画が一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、そのモダンさは時代の注目を集めた。
その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに挿絵として描いた独特の美少年・美少女の絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶスター画家となった。
昭和元年には華宵便箋・封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行うことにより、さらに名声は高まった。「銀座行進曲」(正岡容作詞、昭和3年)中で「華宵好みの君も行く」と歌われるほどになった。流行歌に取り入れられたのだ。鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる豪邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到した。地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するという事件も起こった。
高い人気を背景に、画料は華宵の言い値で決まっていたという。大正13年、高騰に歯止めをかけようとに交渉に訪れた『少年倶楽部』の加藤謙一らに対しては、寄稿の取りやめで応じたという。大変な売れっ子となったのである。
華宵の門下生、森武彦氏が語る華宵のエピソードに次のものがある。
北海道で展覧会があったときの帰り道、華宵が汽車に乗るために弟子一同と駅へ行くと、駅長さんが華宵をぜひにと駅長室へと案内した。彼は華宵の大ファンだったのだ。やがて蒸気機関車が汽笛を鳴らしてやってきたが、駅長さんは華宵と話し込んでいた。駅長さんは「私が指図しなければ発車しないから」と言って、結局5分くらい汽車を停めてしまった。駅長が汽車を遅らせるとはのどかな時代だが、それくらいに華宵が人気者だったのである。森氏は現在、華宵の絵が飾られている弥生美術館の副館長をしている。
しかし、華宵の絶頂期は長くは続かなかった。戦争色が色濃くなってきたこともあり、絶頂の昭和11年ごろから雑誌などの活動が停止されたのである。その爆発的人気は永続せず、戦後も華々しいカムバックはならなかった。昭和30年代に再評価を受けるまでは、やや歴史の中に埋もれた存在となっていた。それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。漫画家の丸尾末広も、華宵の画風に影響を受けていることがよく知られている。
画風
人物画が中心。連載小説の挿絵・雑誌口絵・レターセットなどの小物の意匠などに使われた。独特の三白眼を有する、無国籍風な表情と中性的な雰囲気をもつ人物を描いた。妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、しかしやはりどこか色香を漂わせる少年画は、いずれも一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っている。また、明治から昭和初期にかけての和装・洋装を含む、あらゆる服装・髪型・アクセサリが画題となっていることも注目される。
描かれるファッションのレパートリーは幅広く、たとえば和服については、生涯にわたって同じ柄の着物を二度以上描いたことがないと豪語したとも伝えられる。それほど衣服デザインは多彩だった。実際、彼は浴衣や洋服のデザインを行い、それが雑誌口絵に鳴り物入りで掲載される
など、時代のファッションをリードするデザイナーとしても活躍した(雑誌口絵にはそのデザイン服は「華宵好み」という名を冠して掲載された)。そのレパートリーの広さを存分に生かした渾身の大作が「移り行く姿」(昭和初期、現在は個人蔵)である。これは明治から昭和初期にかけての女性ファッションの移り変わりを、六曲一双の屏風の中に配された60人以上の女性の姿として描きあげた作品である。
暑い季節に寝食を忘れてこの絵を描き挙げた華宵は、そのためすっかりやせ衰えてしまったという弟子の証言がある。一世一代の力作であったのだ。
幾多の美女・美少女・美少年を描き続けたが、特定のモデルはいなかったとされている。また自身はまったく浮いた話がなく、実際生涯独身であった。縁談を勧められたとき「私には絵の中の女たちがいますから」といった切り返しで答えた話は有名である。
失意の戦後と幸せな晩年
戦後しばらくは夢を抱いて渡米するも、経済的・健康的にうまくいかず帰国するなど失意の日々を過ごした。子供向けの怪盗ルパンシリーズや童話などの挿絵仕事を細々と続けながらも、全盛期とは比べ物にならないほど注目されない人生を送っていた。
そのような中、幼少の頃、華宵の絵(特に「さらば故郷!」)に感動した弁護士・鹿野琢見が、華宵の現在を伝える記事を偶然雑誌で読み、本人と文通を始めた。鹿野は、「さらば故郷のような絵を再び描いていただければこの上ない喜びです」と綴った。その後、華宵は「新・さらば故郷!」と題した水彩画を新たに描き、鹿野に贈っている。鹿野がこれらの作品を公開した自宅の和室「華宵の間」は、華宵の生活と創作の場にもなった。
鹿野らの支援・奮闘やかつて華宵の絵に熱狂した世代の要望により、首都圏で回顧展が開催された。それは、爆発的な人気を再燃させた。その模様を見届けた直後の昭和41年7月31日、東京にて鹿野と、かつて画料問題で対立した加藤謙一に見守られて生涯を閉じた。同日付けで、挿絵画家としては初となる勲五等双光旭日章を受けた。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にあり、養子の華晃ものちに同じ墓に葬られている。
鹿野らは、昭和59年に東京都文京区に「弥生美術館」を開き、華宵の作品の常設展示を始めた。同館周辺は明治末〜昭和初期、多くの挿絵画家が住んだ地でもあり、蕗谷虹児らの作品も所蔵品に加えている。田中角栄が政界を引退した時、「弥生美術館」の「さらば故郷!」の前でじっと佇んだと言う話は有名である。15歳で故郷を出た自分と、照らし合わせて見ていたのであろう。
31歳年上の華宵を敬慕した鹿野琢見は、平成21年10月、90歳の生涯を閉じた。
末広鉄腸 ・ 郷土の先人 1
末広鉄腸
末広鉄腸(すえひろ てっちょう 嘉永2年- 明治29年)は、反政府側の政論家・新聞記者・衆議院議員・政治小説家。幼名雄次郎、後に重恭(しげやす)。号に鉄腸、子倹、浩斎。
宇和島藩の勘定役『禎介』の次男として、宇和島藩城下の笹町(現、愛媛県宇和島市笹町)に生まれた。
幼いころから優秀で、万延元年、四書五経の素読を終え、翌年、藩校の明倫館に入って朱子学を修め、明治2年、20歳で母校の教授になった。王陽明の伝習録に傾倒した。
明治3年、上京したものの師を得ることが出来ず、京都の春日潜庵に陽明学を学んだ。明治5年、帰郷して神山県に勤め、明治7年、大蔵省に転じたが、折からの自由民権運動の高まりの中で言論に志し、明治8年4月、東京曙新聞の編集長になった。直後の明治8年6月、讒謗律と新聞紙条例が公布され、8月、それらを非難する投書を掲載して自宅禁錮2ヶ月・罰金2千円となり、最初の違反者として名を広めた。
明治8年10月、朝野新聞の編集長となり、成島柳北社長の洒脱な諷刺『雑録』と鉄腸の痛烈な『論説』とで人気を集めた。だが、明治9年2月に、讒謗律・新聞紙条例の制定者、井上毅・尾崎三良を紙上で茶化したことが罪に問われ、柳北は禁獄4ヶ月と100円、鉄腸は8ヶ月と150円の罰を受け、収監された。下獄中、漢学への偏りを改めるため英語を独学した。釈放後、『末広重恭転獄新話』を朝野新聞に載せた。
明治義塾(三菱商業学校)に学び、明治12年から、嚶鳴社などの政談演説会で国会開設の啓蒙演説を続け、明治13年慶應義塾出身者中心の政談演説討論会が中心となり政治的啓蒙団体「国友会」が組織されると、大石正巳、馬場辰猪らと共に参加して、地方遊説もした。
明治14年、国会設置が予告された。『自由党』が結党されて常議員になったが、明治16年脱党し、馬場・大石らと『独立党』を結成した。(成島社長は『立憲改進党』。)
明治17年、成島柳北が亡くなり、鉄腸は社長没後の朝野新聞を支え、犬養毅・尾崎行雄らを支援した。また、明治19年、政治小説『雪中梅』を出版した。政治の背景がわかりやすいとベストセラーとなって、文名を高めた。明治21年、印税を資に、4月から米欧に旅行して翌年2月帰国すると、宿願とする政党の大同団結に立憲改進党系の朝野新聞社内が冷たいので、退社し各地を遊説した。
そして、その春創刊の『東京公論』紙の主筆になったが、不偏不党の同社と合わず二月足らずでやめ、大阪の大同倶楽部系の『関西日報』紙の主幹となった。
翌明治23年6月、東京に戻って『大同新聞』を主宰し、次に村山龍平と11月、『国会』紙を創刊し、明治27年、のちに『新聞経歴談』となる『記憶のまゝ』を連載した。その間の明治23年7月、大同新聞記者の肩書で第一回衆議院議員選挙に愛媛県から立候補し、当選した。しかし、所属した立憲自由党から脱党し、その後の選挙に二度落選したが、明治27年の選挙で返り咲いた。
在野時の明治25年には、清国・朝鮮・沿海州を視察した。他、興亜会の幹事にも就任している。
明治29年、現職議員のまま、舌癌で亡くなった。言論・政治・文学の各分野にわたって、先覚者として多彩な活動をした48年の生涯を閉じた。墓碑は宇和島市大超寺にある。
長男末広重雄は、国際法学者 京都大学教授。次男末広恭二は船舶工学者。孫で恭二の長男に当たる末広恭雄は水産学者となった。
略歴
嘉永2年 宇和島城下笹町(現宇和島市)の藩士 の家に生まれる。
万延2年 藩校明倫館に入る。
明治2年 藩校明倫館の教授となる。
明治5年6月 神山県の官吏となる。
明治6年 退職し、東京に出る。
明治7年 大蔵省に入るが、すぐに退職。
明治8年4月 東京曙新聞に入社し、編集長となる。
8月 新聞紙条例を批判し、禁錮・罰金刑。
10月 成島柳北の朝野新聞に入社し、編集長となる。
明治9年2月 またも問題記事により、禁錮・罰金刑。
明治14年10月 自由党結党とともに入党。
明治16年 自由党を離党。
明治19年8月 代表作『雪中梅』の上編を刊行。11月には下編も刊行。
明治21年4月 欧米の政治事情視察のための外遊に出る。
明治22年 帰国。外遊の見聞を元に多くの小説を刊行。
明治23年7月 第1回衆議院議員選挙で当選。
明治27年9月 第4回衆議院議員選挙で当選。
明治29年2月 舌癌のため、現職代議士のまま48歳で永眠。